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〔短編連作〕弟月町のひとびと ⑱@昭和

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18.インタビュー:もっさんの話(昭和20年代)

 幹と書いてモトイじゃ。『もっさん』でええよ、もっさんで。
 生まれは弟月と違うぞ、わしゃ弓張大町よ。
 今の人はユミバリいうがな。わしらぁユミバル、ユミハルと言いよった。ま、それはええ。

 まあ……焼けたわな弓張は。なんもかも焼けた。わしんとこの家族は命だけなんとか助かった。防空壕に入る時でも学校の鞄だけはだいじに抱えて守ったのに、肝心の学校も焼けてしもうた。
 親父とお袋は、これじゃいかん言うてな。終戦の年に、弟月の親戚を頼って家族で引っ越したんじゃ。峠をひとつ越えただけでこっちはなんも焼けてないとは不思議な気がしたもんよ。学校も、校舎がちゃんとある。青空教室とかせんで良えのは嬉しかったのう。
 それがよ、せっかく守った教科書が、戦争に負けたとたんに役に立たんなった。先生から、オイこっからここまで墨を塗れー言われてな。なんで?と聞いたらなんでもええけん消せ言われた。あっちもべたべた、こっちもべたべた墨塗りまくって、残るとこないくらい真っ黒よ。あっほらしい。
 親父は親戚に土地借りてバラック建てて、なんとか暮らせるようにした。駅前ですいとんかなにか売る屋台を始めたんはその頃じゃったろか。

 あんた知っとるか? 綴り方なんかはのう、わしらぁカタカナから習うたんぞ。横書きの時は右から左に読んだもんよ。それが終戦後には、左から右に書け、これは統一じゃと急に言われた。
 急と言えば学校の呼び方もころころ変わったのう。尋常小学校? いやいやわしらの年は国民学校言いよったぞ。初等科終えたら高等科よ。そのつもりでおったのに、六年の次は中学校じゃと。なんでも急に変わる。

 あとなあ、それまで男女別の教室じゃったのが、中学に入った年から急に男女一緒に勉強せえ言われたのも困った。うわーおなごん子と隣の机じゃ、どないしょうと。わしら男子だけ廊下で固まってまごまごしよったら、先に入った女子らぁが。
「おまえら怖いんか、性根しょう無しじゃのう」
 いうてからかいおる。弟月の女子おなごは怖いのうと思ったもんぞ。  いやあとから知ったが、わしらの学年の女子は特別オテンバが揃うとったらしいけどな。
 そういや、先生を気に入らんというて教室から追い出したこともあった、それも女子らよ。『新時代じゃ、ミンシュシュギじゃ』いうてな。あいつら意味わからずに言うとったに違いない。
 校長先生がカンカンになって来たが、いうこと聞く奴ぁおりゃせん。
 結局、ざんばら先生に大目玉くらってその場は収まった。
『ざんばら』いうのはあだ名よ。在原ざいばらいう先生でな、ざんばら頭で、いっつも空手の道着着て鬼瓦みたいな顔しとった。けど言いよることは一本筋が通っとるから、オテンバどもも言うこと聞きよったな。

 その頃、海岸沿いに大きい工場ができてな。今は撤退してしもうたが、一時は大勢の工員がおったもんよ。わしらの頃は、中学卒業したら家業を継ぐもん以外はほとんどその工場の仕事に就いたのと違うか。
 わしも行ったよ。うちの親父は、もうその頃にはうどん屋をしよったが、姉さんらが引き揚げで帰ってきたもんで、大家族になってしもうて。働き口があるのはありがたかった。高等学校へ行こうとは、その時は思わんかったな。
 県外から集団就職で来た連中も大勢おった。その子ら含めてだいたいが寮生活よ。男子寮は男寄だんき、女子寮は女寄じょきいうてな、きっちり分かれとったが、食堂は一緒だった。わしもしょっちゅう食べに行ったぞ、可愛らし女の子がおりゃせんかと思ってな。そらそうじゃろうが。十五やそこらできつい工場の仕事するんぞ。そんくらいの楽しみはいるわい。

 ジゲやんの話は聞いたか。あれはのんびりしとるようで、面白い男ぞ。
 上の兄貴二人が兵隊にとられた時、シゲやんはまだ小さかったくせに、家も畑も継ぐつもりで腹くくっとったらしい。ところが兄貴らぁ二人ともピンピンして復員してきた。三男のシゲやんには次ぐべき畑も田んぼもない、中学卒業してこれからどうしようと思うとるところにな。
 ざんばら先生、いや在原先生が来た。
 先生はな、シゲは勉強せにゃいかん、高校行けいうて勧めてくれたんじゃと。弟もおるのにそんな金ないわいと言うたら、新しうできた工場で働きながら定時制に行く方法がある。そういう子が何人もおると。渋る親には、これからの時代は学問が絶対必要になると。説得してくれたんじゃと。
 シゲやんはさんざん考えて、もっさんと一緒なら定時制に通うと答えたらしい。わしら年も近いもんで、もっさんシゲやんと呼び合って工場の現場でも仲良うしとったからな。先生はわしの親まで説き伏せてくれた。ありがたいこっちゃ。
 それからよ、仕事を終えたら学校行くような生活になったのは。わしも付きいがええのう。こんな爺になるまで長い付きいになるとは思わなんだけどな。

 定時制に通うことが決まった頃、わしとシゲやんは寮に移った。三交代の勤務にするためじゃ。昼間だけより給料がええからな。まだまだ食うのが精一杯の中の時代よ。ちょっとでも多く家に金を入れたかった。
 三交代はな、朝から夕の昼勤、夕から夜中の夕勤、夜中から朝の夜勤じゃ。姉の子らも一緒に雑魚寝するような家では、夜勤明けにゆっくり寝ることもできん。シゲやんも、皆が畑仕事しよる昼間から寝るのは気が引けるじゃろう。寮のほうが都合がええ。
 
 寮は面白かったぞ。
 畳の部屋に十人ずつ、同じ階の者は同じ時間の勤務に組まれとる。寝る時間も一緒、メシの時間も一緒じゃ。というても部屋は休憩する者に気ぃ使う。将棋したりしゃべったりは一階の広い娯楽室よ。
 むさくるしい男ばっかり年も似通ったどうし、くだらん遊びで門限に遅れて舎監に怒られる奴らもおったが、まあしゃあないわな。

 工場はどんどん大きうなって、若いもんもどんどん増えた。
 そしたら店が増える。映画館もできる。芝居小屋の跡をコンクリで固めて、ローラースケート場までできた。わしも休みの日は遊んだもんよ。
 ローラースケート言うてもな、今みたいなハイカラな靴はないぞ。車がついた土台を自分の靴にベルトでくくりつけるだけじゃ。ヘルメット? そんなん被らん。
 上手いやつらは、パーマネントあてた女の子連れてキヤーキヤー言わせよったのう。

 昼勤のときは仕事終えてすぐ学校。夜勤のときは学校終えてからちょこっと仮眠して仕事。休みになったら寝る間も惜しんでローラースケートに釣りに映画に、合間に勉強と。よう身体が持ったもんよ。若かったんじゃのう。
 けど夕勤のときは困った。夕方四時には現場に入らにゃならんから、どうしても出られん授業があるんよなあ。
 国語や社会なんかは教科書ほん読んどきゃええ。昔はそんなもんよ。自習でなんとか追いつける。しっかし英語と数学は、のう。ありゃあちょっと授業飛ばしたらチンプンカンプンじゃ。最初の試験はさんざんじゃった。

 そのうちに寮内で『勉強会』いうもんができて、同じように定時制に通う者どうし、自分が出られんかった授業を他の者に聞いて、教え合いこしよういうことになった。ナントカ会、ナントカ同好会は寮の中にいろいろあったぞ。野球、相撲、芝居に合唱、かるた取り。『文化的釣りの会』ちゅう、ただの釣り好きが集まった会もあった。
 世の中どんどん変わりよるから、なんでもええからなんか新しいことをしよる、という気分になりたかったんじゃろうな。
 わしらの勉強会は寮の食堂を使うたから、女子も参加しとった。賢そうな子も可愛かいらし子もおってなあ。わしもシゲやんも、ええとこ見せよういうて俄然やる気を出した。おかげで今でも英語は言えるぞ。アイアム・モッサン・ハウドゥードゥーじゃ。上手かろう。

 そんなこんなで四年経って無事に卒業できた日に、わしとシゲやんはざんばら先生のとこに卒業証書を見せにいった。先生が定時制に行くよう勧めた教え子の中で無事に卒業できたのは、実は半分もおらんかったらしい。みんなほれ、カネの事情とか家の事情とかいろいろあるんじゃ。ざんばら先生は、鬼瓦みたいな顔で男泣きに泣いてくれてなあ。似合わんのういうて、シゲやんと笑うたもんよ。

(次の話)


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