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ヒエラルキーと云う形には頂点があり私の様な不労者と云う位置を実験台と自ら豪語とまでには至らなくても不労者とは聖書を乱用すれば善の世界観と夢見ていたある日


◆私は不燃物の指定日に偶然と必然の狭間と思える様な日に辿りついた。

蒼くて藤色に混ざった様な光りを浴びていろ褪せたクラフト紙式のトランクを見つけた。鍵はかかってない⁈2ダース程の音声テープが全くの手付かず状態は、未開封バージンの様に収まっていた。好奇心は、全開のフルスロットル。それを持ち帰って取り敢えずテープを聴いてみる事にする。その内容の概略から音声は現実からの脱却だった。素直に聞きこむ事に努め始める。生まれてはじめての自己啓発になる。


◆25年前の古い話で超絶に退屈かもしれない

そこには日頃の怠惰な生活送る私がいた。そんお粗末な私と云う人間を戒めるメッセージテープは自己啓発と云う新鮮なワードは確かに有難い内容に見えて一旦は受けいれ学んぶ事にした。しかし短期間で成果が出せた時に怖くなった。そのプログラムにはある強制的なある内容にその後反撥して当然だが投棄されていた場所にそっともどした。そこには、深い意味がありこの先持ち続ける怖さを感じていた。

不燃物の日に拾った未開封の音声テープから当時は大変に有難くメッセージは自分の過不足部分が網羅されていて実に自己啓発の有難いものに見えた。

丁度そのころ展示会の準備中で必死になっている自分がありタイミングとして突然あらわれたのは正に救世主に見えたテープメッセージは自己啓発だ。

◆私は自分の思考を変えてくれるチャンスが舞い込んだテープ情報を素直に受け入れる事にした。この自己啓発は当時の話

内容は私自身の日々至らない点を改めてるカリキュラムがビッシリある。思えば自分の至らない塊が網羅してある。自ら改めたら物になる内容には実に素直な私がいたから不思議であり自己啓発は当時ニューワードで新鮮だったからだ。

音声テープの自己啓発は他人が話している割には素直になれて居る私がいて低いハードルだけを先ずはチョイスして聴き込み実践した今では幻の自己啓発の疑問。


実際はハードルが高過ぎて私には関係なさそうな世界。現実的に乖離し過ぎていて私には到底無理なテーマに思えたが「チョット待て」と頭の片隅で素直になれと言われた気がした。

◆アハーメーション

メッセージテープを簡単に一言であらわせばNOTEに或いはMEMOにし壁にリアリティイメージを貼りつけたりする日々。振り返ると「現実の反省とその実践と行動」のルーティンとかだった様に思います。

自分の経験だとイメージを実際にはスケッチを起こしクロッキーNoteは良かったと思う。実際は言語化しファクトチェックしたものを2次元から3次元のクロッキーは具象化しイメージが膨らむ。それを目の前の掲示板に貼り付け常に目に止める。

インプットとアウトプットのセットと共に当時の素直な私は実はテープセットの話に類似した話を知り合いより情報を得ていたから素直になれていたとも言える。

その情報はあまり現実的な話では無く私は、関心を示さなかった。正確には投資に値しないものと感じていたがしかし投資しなくともその価値らしい物が舞い込ん来てくれたのです。展示会は想像以上の成果があり夢の様な話でテンションは針が振り切れそうだった。展示会は、無事に終わった。そして成果が出た「自己啓発本」と云うこのメッセージテープは、展示会後にそれを投棄する事にした。

自分には好都合なテープだった。良い「自己啓発本」を何故投棄したのだろうか⁈実は展示会の成果が余りにも良過ぎた怖さにあった⁈

成果が有れば普通は問題意識には、繋がらない訳で⁈加護の成果の鵜呑みにしてやり過ごすで有ろうと思いが有り自らストップをかけた。

当時の私は実力があるレベルに届いていなくとも結果だけの成果が上がり⁈個人的なバブル期が一気に加速した気がしていた。

◆次の展示会が数件が決まり大きな企画も入りてんやわんやの状態は精神的リスクが大き過ぎると感じた小心者



自己啓発本は確かに成果は出るが果たしてそこには実力が伴っていない。

伴って無いと云うのが私には、目に取る様に解っていた。


ダイレクトメールは自分でデザインする事にした。フイルムカメラの「二重露光」を試みそのテクニックが又偶然に生かされて良い写真が撮れた。いい写真がとれたのも自己啓発のお陰だったとおもいます。カメラは、フイルムを使って何故か「二重露光」の被写体の重なりは、偶然が功を奏して幻想的に仕上がった。

被写体は自分自身の作品から生まれ二重露光で試した始めての経験であり、それは更に気に入った写真に仕上がった

知り合いに「ラボ」に勤める人が居てフイルムを持ち込みデザインのラフで一任してシステム的に安価で仕上がった

作品のメインは照明器具で制作は一ヶ月の短期でその制約の中で無駄な時間は許されないし技術も無いが有るのは自己啓発のテープであり其れは朝晩とわ常時流れている。気持ちが焦る自分いて何にも無いスキル無いそれは俄かの「竹職人」

照明器具の制作の合間に油絵も制作していて自己啓発で気持ちは高揚し自由に伸び伸びと一気に数点の作品が出来た。アブストラクトな抽象画の5〜6点は、筆運びがスムーズにいった。

睡眠時間は充分に取り早寝早起きの規則正しい生活を送りながら大いに自己啓発にも後押しされながらやれる事は不思議なくらいに事が運べた。


自己啓発のテープは自己確信へと繋がる。最大の特徴はポテンシャルの引き出し方に有りそれが自信に繋がりそれをやり過ぎると勘違いを導く危険がある。その限りない欲望に繋がると感じた自己啓発と云うのは理性的な生き方でも無く人間の本質でも無い。

自己啓発のテープはある意味教科書であり欲望を獲得する教科書でもありシステムとしてサブミナル効果なのではなかろうか。

奇跡的に拾い上げた自己啓発のテープは救世主ではあっても一時的に受け入れるには悪くはないけれどそこにのめり込むと危険への産物で更に限り無く欲望へと繋がるかもしれない。それはナチュラルじゃない生き方に想た。

自分の時間の配分は自分に無理のない計画が良いと云う今の価値観では、今回の緊急事態宣言に影響を最小限にえさえられる。それは、過去の選択基準が活かされた気がする。要は自由な自己管理の捉え方では無いだろうか。プレッシャーに弱い私の様な思考はほどほどが向いている。

現実の困難を回避しながら客観的に経験する限りでは、この世に生を受けその限り有る命を懸けてする意味はこの世には余りないのだろうと...小鳥たちの囀りに共感した。

物作りの立場から云う時に、自立して形にして販売までする事は容易では無い。それは物が余っている実情を考えると良くわかるし、後は経済的に優先するかしないか⁈あるいは社会的還元の成果を更に目指す器で有るだろうか⁈「足るを知る」。

市場は断捨離時代であり新たな必要性をユーザーに訴える事は至難の業だし未来へのおおいなる課題と選択なのかもしれない。

⚪️その流れから企画展1999年の年末年始に近い展示会のお話です。

https://note.com/some_note/n/n131f7ef12611



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