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なつかしい、という感情

特にそういう人に会ったわけではない。そういう場所に行ったわけでもない。そういう記憶があるわけでもない。

インスタでも始めようか、と携帯片手に八ヶ岳の自然を撮りまくっていたときのことである。

ふと、景色に冬から春への微妙な空気や色のちがいを感じて、それを懐かしいと思ったのである。

どうせインスタを始めるなら、写真の下にコメントを入れようと考えていたので、季節の移ろいをなつかしいと表現するのは適当ではないかもしれないと、思わす立ち止まった。

後日のこと。

幸田露伴の「努力論」の中の幸福三章を読んでいた。私は自他ともに認める幸福ハンターである。幸福になりたい気持ちが人一倍強い。

幸田露伴は言う。幸福の三つの例を挙げる。「惜福」、「分福」、「植福」。詳細はのちの機会に譲るとして、その「分福」の章でこう述べている。いわんや、分福とは、自己の得るところの福を他人に分かち与うることである。

たとえば自己が一つの小さな蜜柑を得たる時に、自分一人でも足らないものを、そういう場合でも他人に半分を分け与えるのが「分福」である。「分福」は高貴の情懐の発露である、とも言う。

そして、こう続けている。

真に「分福」の心を抱けば、その分かつところの福は少ないにしても、その福を享受したる人は、非常なる好感情を抱くものである。

例えれば、春風は和らぐといえども物を長ずるの力は南薫に如かず、春日は暖かなりといえども、物を烘る能は夏日にしかざるが如きであるにかかわらず、なお春風春日は人をして無限の懐かしさを感ぜしむるようなものである。

私に「分福」の心があるかどうかは別にして、春風春日に懐かしいという感情が生まれたのは確かである。高名な文学者と感性が同じだったと、自慢するのではない。人の心から発露するものは、常識的な言葉の意味とは違う時もあると思うのだ。

ここでの私の投稿の読者は数少ないが、近頃の季節の移ろいに、なつかしい、という感情をお持ちになった方がたくさんいると、そう信じている。

いかがですか?


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