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水に流して

いえ、後悔してない
私は何ひとつ後悔してない
私に起きた好いことも悪いことも
私には同じこと

いえ、後悔してない
私は何ひとつ後悔してない
代償を払って過去は精算した
もう忘れ去ったわ
私には過去なんてどうでもいいこと

いろいろな思い出
火をつけて燃やした
悲しみも喜びも
今はもう必要ない
過去の恋は精算した
震える想いと共に
永遠に追い払った
またゼロからやり直すわ

いえ後悔してない
私は何ひとつ後悔してない
私に起きた良いことも悪いことも
私には同じこと

いえ、後悔してない
私は何ひとつ後悔してない
私の人生私の喜びが
今日から始まる
あなたと共に始まるのよ


エディットピアフは言うまでもなく、世界的に有名なシャンソン歌手である。

小柄な体ながら魂を震わせて歌う姿は、フランスでの人気は勿論のこと、日本でも、例えば、代表作、「愛の讃歌」は、越路吹雪や美輪明宏を初めとしたたくさんの歌い手がカバーしている。

そして、数多いピアフの歌の中でも、私がいつも心を揺さぶられるのは、冒頭に書いた、「水に流して」である。


ここでの投稿で既に書いたが、私が今パートに出ている施設で、年末年始ジャズライブの企画進行を任された。
当日出演してくれた女性ボーカリストの中に大学の声楽科に通うNさんがいて、彼女は事前のアンケートでジャズのスタンダード曲と共にピアフのラ・ビ・アン・ローズを原語で歌いたいと言ってくれたのである。

将来ある若いNさんにはまさに「バラ色の人生」が似合っていて、とても「水に流して」を歌ってくれとは言えない。

「それほど美声とも言えない、ピアフの歌が何故人の心を動かすのか分かる?それは魂で歌ってるからなんだよ、ね」

不遜にも、ただ年長者というだけでそんなことをいう私にNさんは、それでもこちらに眩しいほどの笑顔を見せてくれたが、私はその笑顔に別の女性の顔を思い浮かべていた。

 
「大事な人が死んだの、よくある話。その頃仕事に夢中ですっかり彼のことを忘れていた。一分一秒でも一緒にいたいと思っていた人なのに。彼はアル中になって、精神病院で死んだ。そのことを人伝に聞いたの、私は何も知らなかった。それから私は・・・」と彼女は言った。


ドラマの中の話ではない。現実のことだ。
実際に私がそのことを聞いたのは彼女からではなく、彼女の弟からだった。

私と高校の同級生である弟とは、ひょんなことから久しぶりに繋がって、姉である彼女の近況を聞いたのである。

彼女は私の憧れだった。

小柄な体でいつも全てに真摯に向かい合う姿は眩しく、単に同級生のお姉さんとしてではない存在だった。

故郷を捨てた私はそれまで、その頃の友人たちとも交流はなかった。
ただ何となく若い頃の淡い恋心を残したまま、彼女はきっと故郷の近くで幸せに暮らしているものと思っていた。

それが・・・

最愛の人とそういう別れ方をして、

それから・・・

まるで死んだように生きているのだという。

それは弟の言葉だ。


忘れたい過去はきっと誰にでもあるのだろう。
だけどそれを忘れられなくて忘れられなくて何度もひとは傷つく。

そしてまた、美しい過去も時にはひとを無邪気に傷つける。
それが美しいがゆえにもうそこには戻れないという喪失感になおさらひとは傷つく。

エディットピアフもまた最愛の人を飛行機事故で亡くしている。
その恋は名曲「愛の讃歌」として残った。
波乱万丈の人生だった。
それでも彼女は前向きに生きようと、過去はすべて、良いことも悪いことも捨てるというのである。
その覚悟はまさに小柄な体を震わせて愛に生きたピアフにふさわしい。


私は後日、同級生に、ピアフの歌う「水に流して」をお姉さんに教えてくれ、と控えめに伝えた。



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