見出し画像

「無」の時間を生きているか。

秋の読書感想文というイベントがnoteで開催されていることを知り、数ある課題図書の中から「植物癒しと蟹の物語」を選び、読みました。
植物が好きなので、植物と蟹というあまり相いれない名詞が並んでいるタイトルに興味を持って読んでみたのです。

何回か読んで、自分の中で率直に浮かんだ言葉は、
「最近感じていた「無」の時間がほしいとはこのことか?」
「自分がご主人と同じ時を迎えたときに蟹になんて言えるだろうか?」
でした。

社会人になって、学生の時よりも自由になっているはずなのに、何かをしていないといけないような焦燥感にいつも駆られている気がしています。
いつも誰かしらにとってのいいヒトでいなくてはならない。自分が成した仕事が誰かのためになって意味のある事でなくてはならない。そう感じることが多ければ多いほど、私は「無」の時間が欲しいと感じていました。
花を活ける時間はその数少ない「無」の時間になっていて、それはきっと植物と話している=自分と向き合っている時間だからだったのかなあ~とこの本を読んで思いました。電車でスマホを見ずに流れる景色をただ見る、好きなカフェで座って全身で好きだな~という感覚を味わう、日向ぼっこをしながら温かさを感じる、眠る。全て無の時間。

つまり、私がなんとなく思っていた「無」の時間というのは本来の私そのものである時間。特に理由もなく自分が感じるままでいて良い時間。だったのかなあ~~と気づかせてくれました。

そして、蟹を見たご主人は、この無の時間を選んで生きてきたのではないだろうか。だから蟹が見えたとき、それも自分自身だと、受け入れられたのではないか、、。今の私は、「そのものの私」として生きていて、蟹が見えた時にも受け入れられるだろうか? この問いかけは「無」の時間が足りないと感じた時に自分の池に投じたい素敵な言葉になるだろう。

「無」の時間は自分だけの時間 という訳ではなく、周りの人の声を聴いたり自分の言葉が分からなくなって探す時間もきっと含まれてくる。含まれれば含まれていくほどやさしさが増えて、理由がいらなくなっていくのかなあ。(大切な人の痛みを分かち合ったり、大切に思うことに理由なんている?と言う時があるけど、このことかもしれない。)

生活していくためには、Reasonを身にまとっていかないとならない と思ってしまうけど本当にそうだろうか? ほんの少しでも徐々に徐々に自分そのものの「無」の時間を増やして今を生きていきたい。
そしたらきっと蟹に会う時が来たとしても胸を張って透明な自分になっていけるのではないかなあ。
そう考えさせてくれる一冊でした。

この本を書いている小林さんが同世代であることに驚くとともに、同じ世代だからこそ、この息苦しさにお湯を注いで和らげてくれる言葉が各所に入っていました。何か一生懸命にならないといけない焦燥感にお湯を注ぎたくなった時がある人はぜひ読んでみてほしいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?