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人間の証明。いや、お母さんの証明か。

全ての人はお母さんから産まれた。

近年「毒親」や「親ガチャ」などと云う、まぁいかにもメディアが飛びつきそうな言葉が取り上げられ、社会文化学者やら教育研究者やら元議員タレントやらが「一家言あります」的な顔で愚にもつかない話に鼻白むばかりだ。

そんな学者だって、研究者だって、タイゾーだって、ボクだって、みんなお母さんから産まれたのだ。

二時間に渡る作品を一枚のビジュアルに変換させる難しさたるや。
ボクだったら、どういうビジュアルにしただろうか、、、

「ぜんぶ、ボクのせい」

その、ネガティブ感しかないタイトルと「誰も知らない」を想起させるビジュアルに少しばかり興味を惹かれて試写を観た。

ちなみに、ここ二年ばかりはコロナ禍によりオンライン試写が主流になったことで、今まではタイミング的に見逃してしまったような残念なことも少なくなったのはとても嬉しい。

何しろ特筆すべきは主役「優太」役の白鳥晴都くん。
オーディションで主役を得たそうだが、演技云々よりも、その佇まいの秀逸さ。
「佇まい」に秀逸もなにも、才能みたいに言うか?と思われるだろうが、映画(の画面)での「映え方(=佇まい)」は、疑う余地のない「才能」だと思う。
役柄的に「”演技演技”していない演技」というのが求められる立場だろうから、演技経験が少ないことが功を奏したのかもしれない。
しかしながら、それも演技だとしたら末恐ろしい役者がまた一人、お母さんから産まれたのだ。

ヒロイン(?)、詩織役を演じた川島鈴遥(読み方、不明)さんのことも知らなかったが、新人賞受賞歴もあるという。遅ればせながら、これから注目してみようと思う。

そして準主役的な存在、「おっちゃん」役を演じたオダギリジョーの、あの独特な空気感はやはり卓越した存在の俳優だ。
ボクはドラマ「時効警察」と、映画「湯を沸かすほどの熱い愛」での彼の演技が好きだが、今作品では、そのどちらもが共存するような役柄で、演技としては2022年7月現在では個人的オダギリジョーベストアクトだと思っている。

主役「優太」のお母さん役が松本まりか。
残念ながら彼女の出演作はドラマも映画も全く観ておらず、、、と書きながら思い出した。
先日NHKで放送されたドラマ「十七歳の帝国」での新聞記者役だけは観ていた。そこでの印象は「可もなく不可もなく」程度だった(そもそも、そんなに登場しなかった)から、今作品での演技には少なからず驚いた。
抜群の演技力、という意味ではないが、自分の容姿(や役者としての立ち位置)をちゃんと受け止めて理解した上での演技(演出も良いんだと思う)が、とても良かったし、(これは役柄的に成功しているという意味で)本当に胸クソ悪くなるくらい、そして悲しいくらいにダメ女だった。

いわゆる「端役」扱いの出演者も、ツボを押さえた存在感を放つ役者陣で作品にしっかり「重石」を置いてくれていた。


なのに、なのにだよ、、、

昨今の映画はロケ地の協力や補助金を得るためなのか、モブっていうのかな?いわゆるエキストラがほぼほぼ現地の素人というのが主流らしく(制作費削減もあるのかね)、せっかく作品に入り込んでいい感じに気持ちが温まってきたタイミングで、興醒めするど素人演技を見せられて、また振り出しに戻る、、、、みたいなことがまぁまぁあるんです。
こういうのって、現在の映画産業では「仕方ないじゃん」「そこ、ツッコまないでよ」という風潮なんですかい?
テレビでも視聴者の意見をツイッターで募って紹介します、みたいなことも同じに感じてて、そうやってプロモーションというか客寄せしないと観てもらえない的な作り方がクオリティー下げてるんじゃないかと以前から思っている。
ボクの主戦場である音楽業界でも同じような現象が数年前から増え始めて辟易しているのが実状。
いつから「餅は餅屋」という考え方が軽視されるようになったんだろう?

それは、さておき。


作品の内容は公式サイトでフォローしてもらうとして、ここはあくまでも私的な映画レビューですから、忖度なく、思ったことを言わせてもらう場所です。

こういう社会問題を扱う映画は、いつの時代にも絶対に必要で、それは表現方法がドキュメントであれ、ファンタジーであれ何でも良いんです。
「声なき声」を取り上げる社会的意味、「社会の闇、不正を暴く」というような正義ヅラするのもいいでしょう。ちゃんと存在理由になるし、さっきも書いたように必要な表現、弾圧されない、黙殺されてはならない権利だと思う、絶対に。
うん、絶対に。

それとは別にエンターテイメントとしてこの世の中に放つ意味。それも同等に大切な理由というか意味だと思っている。
だから「悲しい」だけ「痛い」だけ「辛い」だけ、というのはボクにとってはエンターテイメントではないと思っている。

この作品はさっきも書いたように胸クソ悪くなる出来事ばかりで、観ていて「悲しい」し、「痛い」し、「辛い」。
「負の連鎖は悲劇です」「でも、これが悲しい現実なんです」なんて、定型文なコメントしかできない学者先生や研究者やタイゾーの顔が浮かんでくる。

果たしてホントにそうなのか?

「負の連鎖」は悲劇を生む要因だが、全て悲劇なのか?
「これが現実」でも、全て悲しいことなのか?


じゃあ、最後に優太が言った一言は、どういう意味なんだ?


悲しい中にも一条の光り、なんて使い古された言葉が頭をよぎって、ついボクも書いてしまいそうになる。


一条の光り、ではなく、一縷以下かもしれないが全くの闇ではない、、、かもしれない、、、



そういう映画だった。



追記
エンディングロールで流れる大滝詠一本人バージョンの「夢で逢えたら」が7インチレコードとして発売されるタイミングでのタイアップなのかな?
ちょっと複雑な気持ちながら、迷わずAmazonでポチってしまった自分。
お母さん、ごめんなさい。



8/11から新宿武蔵野館ほか、順次ロードショー公開です。

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