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かわら版No.8 ー 地方の政治に、今なぜ若さが求められるのか ー ①

明日は、8月13日、お盆ですね。僕の地元の柳町は、東寺町にほど近いため、例年、お線香のにおいがうっすら立ち込めます。今年も、ご先祖様の霊がかえってくるのだなと、においが教えてくれるのです。民俗学者の折口信夫によれば、南北朝時代以前は、1月・2月・7月・9月・12月の5回、精霊が戻って来るものと信じられていたそうです。その後この5度あった精霊会がだんだん失われていって、ただ1回の盂蘭盆会(うらぼんえ)になったとうことであり、7月の盂蘭盆と12月の魂祭りが、折口信夫よれば、“古代”からの遺風だということです。8月13日のお盆には、このような古くからの歴史があるわけです。

さて、枕話はこのぐらいにして、今回は少し学術的な話を交えながら、地方の政治に、今なぜ若さが求められるのか2回に分けて論じようと思います。

社会学者のアンソニー・ギデンズが指摘するように、私たちは、「すべてのの者がローカルな生活を送っているとはいえ、現象的世界は、大部分真にグローバルなものなのである。」(P312)どういうことかと言うと、私たちは、米沢で生活しているけれど、とはいえ、とりまく環境はグローバルなモノ、コトでほぼほぼ満ち満ちているということです。私たちは、米沢人であっても、生活のすべてはグローバルな社会に直通しているし、スマホを開けばたちまち全世界とつながってしまいます。ギデンズが、「すべての個人は、かならずしも意識してではないが、数多くの媒介された経験を自らの日々の行動に積極的に選択して組み込んでいる。」(p313)とさらに続けるとき、それはもはや現代社会に生きる私たちの存在様式の一部として不可避な現象であるとのことだと思います。

ローカルにいてもグローバル、この環境世界から私たちは、もはや離脱できません。どんなにのんびりとした田舎にいても、眠りから覚めれば起動し、有無を言わせず私たちを連れ去ってしまう、騒がしい刺激的な社会が得意な人はいいけれど、そうでない人にはなかなかやっかいな社会と言えそうです。なんとも、これが現実です。この目が回るような社会に適応し、またメタ認知し、そして利用し、うまく主導していくためには、どんな人物が今の政治の舞台に求められているのか?考えてみる必要があります。

ひと昔前であれば、ローカルはローカルを生きれたかもしれません。世界で起こっているニュースに関心を示して、世間の空気を読んで、政策はまわりの自治体の横並び、流行やトレンドを見知って、悪さをしない、及第点のリーダーであれば合格点が付いたのかもしれません。そんなメンタリティでもウェルカムな時代が、最近まであったのではないでしょうか。いや、これからもローカルはローカルを、変わらなければ、あえて見ようとしなければ、目をつぶったまま生きることだって名目的には可能かもしれませんが、「君たちはどう生きるか」同様に「地方はどう生きるか」考えようと、生まれ変わろうする意志の有無によって、運命は異なってきます。それが令和です。

次回へ、つづく。

参照文献
折口信夫「盆踊りと祭屋台と,ー 盂蘭盆会と魂祭りと」
アンソニー・ギデンズ「モダニティと自己アイデンティティ」ちくま学芸文庫

かわら版No.8

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