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『進撃の巨人』という神話の哲学的論考

はじめにー「進撃の巨人」という事件

先週、『進撃の巨人』がついに完結しましたね。最近でいうと『鬼滅の刃』の空前のブームが日本人の記憶に新しいかもしれませんが、ぼくは圧倒的に「進撃派」です。同時代にこの作品を、『進撃の巨人』という事件を目撃し、体験したものとして、とても誇りに思っています。

『進撃の巨人』の何がすごいのか。正直、このレベルの作品はしばらく出てこないんじゃないか、とさえ思っています。手塚治虫の『火の鳥』級の偉大さに、畏怖の念すら覚えます。小説でいえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』級です。

主人公級の人物が次々に死んでいく型破りな覇道的作品でありながら、累計発行部数で1億冊を突破するエポックメイキングな処女作にして、初回タイトルから11年もの月日をかけてみごとに物語の伏線を回収し、コアなファンたちの心臓を鷲掴みにし続けてきた『進撃の巨人』。

ただでさえ漫画として出色の作品ですが、これを一つの芸術としてとらえるならば、『進撃の巨人』とは、哲学書であり、歴史書であり、科学書であり、要するにひとつの神話である、というのがぼくの考えです。

神話とは、つまるところ世界のすべてを語るコンテンツです。神話学者のヨーゼフ・キャンベルによれば、神話の共通構造=「旅立ち、挑戦と勝利、帰還」。実はそういう意味でいうと、『進撃の巨人』は、漫画としては覇道かもしれないけど、神話の物語構造としては真正面からの王道ともいえます。

物語の完結をうけて壮絶なロスに陥っている人も、まだ「進撃の巨人」という世界を知らない人も。ここから「進撃の巨人」という神話の世界をご紹介していきます(※ここから先は、多くのネタバレを含むため、未読の方でネタバレNGの方はお控えください)


哲学書としてー世界と人間の存在理由

まずは哲学書としての『進撃の巨人』です。いきなりですが、哲学とは、究極的には世界と自分への問いかけに集約されます。より具体的には、「世界はどうしてできたのか?世界は何でできているのか?」「人間はどこから来てどこへ行くのか?なんのために生きているのか?」という問いかけです。

結論として思うのは、『進撃の巨人』は、現代を生きる我々にとっての神話であり、世界の矛盾構造と、人間の存在理由や正義のあり方をつきつけてくる、ということです。

『進撃の巨人』のひとつの特徴が、その世界構造です。物語が進むにつれて徐々に明らかになり、解き明かされていく世界構造の謎。そして、その中でおこる世界のコペルニクス的・認識論的転回。読み進める中で圧倒的なカタルシスを覚えた読者の方も多いのではないでしょうか。

個人的には、『風の谷のナウシカ』の世界構造などは近しいものを感じますが、『進撃の巨人』の世界構造は、より立体的かつ複層的です。物語の中で、主人公たちにとっての世界の認識がどう変化していったかの私なりの理解を、下の表にて図解しておきます。

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矛盾に満ちたな進撃の世界において、象徴的なシーンがいくつかあります。まずは、まだ世界構造の認識が育っていない初期の段階において、調査兵団団長のエルヴィンが、捕虜にとらえた巨人の不自然死を原因究明する中でエレンに発した、「君には何が見える?敵は何だと思う?」という問い(第5巻20話)です。

そして、世界構造の認識が圧倒的に進み、上記を回収するような形で発せられた「我々が相手にしていた敵の正体は...人であり、文明であり...言うなれば、世界です」というハンジの結論(第22巻89話)。

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主人公たちにとって悪の象徴として「駆逐」すべき対象だった巨人の正体が実は自分たちであり、自分たちの存在そのものが巨悪=「世界にとっての敵」として認識されていると知ったエルディア人。

そこから、単純な善悪に割り切ることのできない二面性や多面性の中で、かつての敵が味方になったりしながら、物語は複層的に展開していきます。言わずもがな、現代に生きる我々に対して、人種差別やマイノリティの問題の奥深さを投げかけます。

この終わりの見えない世界の矛盾に対して主人公たちがさまざまなアプローチで解決を試みる、というのがこの物語のメタ構造です。そして、本作品の展開は、そうした世界の問題が主人公やヒロインたちの存在に直結するという、いわゆる「セカイ系」の一種ともいえます。

では、この世界と人間への問いかけ、とりわけ世界の矛盾構造における人間の存在理由と正義についての深淵な問いかけは、物語の中でどうエンディングしていくのか。それをここから見ていきたいと思います。


歴史書としてー社会の分断を超える

考察を進めるうで、次に『進撃の巨人』を世界の歴史書として読み解いてみたいと思います。歴史とは、その「ヒストリア」(奇しくも!)という語源の通り、ナラティブ・物語であり、世界と自分を結びつける社会の営みの物語といえます。

結論として思うのは、『進撃の巨人』は力と愛の物語であり、社会の分断に対する指南書であり、未来の予言書でもある、ということです。

進撃の巨人に通底するテーマは、ミカサの言葉を借りるならば「この世界は残酷である」ということです。社会はわかりあえなさに満ちている(※このあたりは、ドミニク・チェンの『未来をつなぐ言葉:わかりあえなさをつなぐために』や宇多川元一の『他者と働くー「わかりあえなさ」から始める組織論』を引くまでもなく、格差や分断が広がる昨今の世界の重要テーマ)。

わかりあえなさの満ちた世界の中で、敵同士として殺し合っていたエルディア人とマーレ人が、互いの理解を深めて互いの立場を知っていく過程で、共通敵を前にして徐々に手をとりあっていく展開は、対立構造における相互理解やマイノリティ体験の大事さを我々に教えてくれます。

またもう一つ重要なのは、主人公であるエレンが抱く葛藤です。たとえば、父から受けういだ自らの記憶から、世界の真実と邂逅したシーンにおける「いらなかったんだよ...あの訓練の日々も...壁の外への夢も...オレはいらなかったんだ」という独白(第16巻65話)。

そして、(本来であれば感動的シーンであるはずの)仲間と壁の外の海にたどりついたシーンにおける「なぁ...(海の)向こうにいる敵...全部殺せば...オレ達、自由になれるのか?」(第22巻90話)というセリフに象徴されるように、エレンは次第に、世界の矛盾や対立の根本原因・中心地点に自分の存在がある、ということに絶望していきます。

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たとえば『風の谷のナウシカ』などでも似た構造が見られますが、自らの繁栄や発展そのものが世界にとって害悪であるというこの葛藤は、実に現代的なテーマに通じます。それは、格差と分断を増幅させるエンジンとなっているのが我々の生きる資本主義というシステムそのものであり、生態系の環境破壊を招いているのが我々人類の存在そのものである、という葛藤です。

「不戦の契り」によって力を限定して壁の中にこもり束の間の平和を願った145代カール・フリッツ王。「安楽死計画」によって段階的・計画的な力の消滅を図ったジーク。「地ならし」を行使して力による世界の支配を(表面的には)試みたエレン。そして、「わかりあえなさ」をのりこえて愛により力の呪縛から世界を解放したミカサとアルミン。

力を行使して世界を支配するのか、力を制御して小さく生きるのか、力そのものを消滅させるのか、はたまた力を超論理的に愛で凌駕するのか。

エレンが「地ならし」を発動して世界を踏み潰すことを決断したのは、たとえ自らが世界の敵になっても、いやむしろそうなることによってこそ、彼の最後の希望である仲間たちを守りたかったからです。

結果として、それがアルミンの覚悟とミカサの愛を引き出し、巨人という力の消滅、つまり力という呪縛からの解放が世界に平和をもたらすという結末は、多分に戯曲的ではありますが、行き過ぎた資本や権力がつくりだす格差や世界の対立構造を我々が今後どう舵取りしていくのかを考えるうえで、示唆的です。

蛇足ですが、最後にミカサが願った白昼夢における小さな村でのエレンとの共同生活は、たとえば斎藤幸平さんが『人新世の「資本論」』で書かれているようなマルクス主義の新解釈としての「脱成長コミュニズム」や、山口周さんが『ビジネスの未来ーエコノミーにヒューマニティを取り戻す』で主張しているような「明るく開けた高原社会」を想起させます。


科学書としてー「自由意思」を問う

続いて別の角度から、『進撃の巨人』を科学書として読み解いていきたいと思います。歴史は人間の物語の編纂を行う一方で、科学は世界の真実の探求を志します。『進撃の巨人』は、その設定の細かさとあわせて、また調査兵団の成り立ちからして、科学の重要さを我々に再認識させてくれます。

結論として思うのは、『進撃の巨人』は、真実を探求した科学による革命の書であり、人間の自由意思について問う研究書である、ということです。

地球は自ら回転しているという地動説をとなえたコペルニクスの例(cf. コペルニクス的転回)を引くまでもなく、科学がもたらす宇宙や世界の真実は常に刺激的で、常識を覆し、歴史的に時の権威との論争・闘争やときに革命を引き起こしてきました(cf. トマス・クーンの『科学革命の構造』)。

『進撃の巨人』では、序盤から巨人の謎を追求し続けた調査兵団が、王権が改竄した歴史の裏に隠される世界の真実を解き明かし、そしてそれが王権打倒の革命・クーデターの引き金を引く形になります。真実を武器に成就したクーデターは、壁の民に思考や表現の「自由」をもたらします。

「自由」は『進撃の巨人』に通底する重要なテーマですが、「自由」の意味するところは、物語の中で大きく変わっていきます。

序盤では、壁の外へ出るための行動の自由が語られます。しかし物語が進むにつれて、上に述べたような思考や表現の自由、そして終盤に至ると、より根本的な問いとして、誰にも支配されずに生きるための存在や意思の自由へとテーマは深化していきます。

象徴的なシーンは、かつての仲間たちから反逆者に認定されたエレンが、そのことをまだ信じられずにいるアルミンやミカサとの再会に際して発したセリフややりとりです。

「オレは自由だ。オレが何をしようと、何を選ぼうと、それはオレの自由意思が選択したものだ」(第28巻112話)と言い放ち、そのあとで、アルミンとミカサが他者に操られた不自由な奴隷であるとして、その存在や意思の自由を否定するシーン。あとでその真意は明かされるものの、このシーンをは読んだときは本当に辛かった...(心の声)。

『進撃の巨人』を通じてもっとも重要な問いと私が考えるのは、「人間の自由意思とは何か?」というものです。

巨人の頂点に立つ「始祖の巨人」は、全エルディア人の記憶をもコントロールする集団意識の根源です。そして始祖ユミルは、初代フリッツ王の「大地を支配し永久に君臨し続けよ」という命令に、実は2,000年も間、奴隷として従い続けてきたということが、物語の終盤で明らかになります。

そんな始祖ユミルに対して、エレンが「オレがこの世を終わらせてやる。オレに力を貸せ。お前は奴隷じゃない。神でもない。ただの人だ。誰にも従わなくていい。お前が決めていい」(第30巻122話)というセリフをぶつけるシーンが出てきます。

エレンは、全エルディア人の意識をコントロールできてしまう始祖ユミルの自由意思を2,000年の呪縛から解放します。そして最後には、愛と自由を求め続けた始祖ユミルの苦しみがミカサ(からエレンへの愛)によって解放され、それが引き金となって始祖ユミルのもつ巨人の力そのものが消滅することになります。世界の対立構造の真因である巨人という力の終焉です。

つまり、「力>>自由」という構造が、「自由+愛>力」となるのです(フランス共和国のスローガンである自由・平等・友愛を想起させますね)。

この構図を考える中でぼくが考えたのは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』『ホモ・デウス』での一連の問いです。

『サピエンス全史』における「(人工知能やゲノム編集で神をも超えた存在になりうる)私たちは何を望みたいのか?」という問い。そして、『ホモ・デウス』における「生き物は本当にアルゴリズムなのか?知能と意識はどちらが大事なのか?アルゴリズムが支配する世界で社会や政治や日常生活はどうなるのか?」という問い。

前述したように、科学の進歩は革命を呼び起こし得ます。ハラリの予見するような未来が仮にやってくるのだとすると、アルゴリズムという力の肥大化やホモ・デウスの神性は、人間の自由意思を脅かしうるでしょう。

自由意思は人間の尊厳に関わる問題です。現段階ではSF的妄想に近いですが、物語の中で図らずも神性を獲得していったエレンが抱えた葛藤は、人間が遠い将来に向き合うかもしれない自由意思の苦闘の描写といえるのかもしれません。


ビジネス書としてー「悔いなき選択」

ここまで読んできて、「いやいや、そうじゃない。進撃の巨人はもっとシンプルにアツい感じでしょ!」と思ったみなさん。おっしゃる通りです。御託を並べなくとも、『進撃の巨人』は胸アツのシーンやセリフの宝庫です。

もちろん、たとえば『キングダム』とか『BLUE GIANT』みたいなもっとストレートにわかりやすいコミックもあります。ですが『進撃の巨人』はビジネス書としても、組織のビジョン・リーダーシップ・個人の成果と成長・戦略と戦術と戦闘などにおいて、多くの示唆を私たちに与えてくれます。

結論として思うのは、『進撃の巨人』は、ビジョンと戦略とリーダーシップの本質がなんたるかを示す経営書でもある、ということです。

たとえば、エレンやミカサ、アルミンの所属する「調査兵団」は、作中ではベンチャー的組織として扱われているように感じます。安定した大企業的組織である「駐屯兵団」、腐敗と汚職が進んだ公的組織である憲兵団とは対照的な存在です。

ビジョンは明確であり(ハンジの「わからないものがあれば理解しに行けばいい。それが、調査兵団だろ」)、バリューは狂信的であり(エルヴィンの「心臓を捧げよ!」)、そして戦略は少数精鋭部隊での一点突破。

特にエルヴィンの戦略は、常に本質をとらえ、それを作戦の目的にすえ、少ないリソースを集中させて一点突破を狙う。持たざるものが勝つためのベンチャー的発想です(e.g. 対女型巨人や獣の巨人の戦闘)。

そして常に想定の外まで知恵を広げてプランB・Cを用意している(e.g. 壁内での市街地戦)。エルヴィンの戦略を信頼しそれに忠実に従うリヴァイが、女型の巨人との戦闘の中で感情的になって行動を乱したミカサを諭す「作戦の本質を見失うな!」という一言は我が意を得たり、という感じでした。

進撃の巨人の名セリフはたくさんあって、もうこれは人それぞれだと思いますが、とりわけ私の好きなシーン・セリフを3つだけ取り上げます。意思決定やリーダーの覚悟とは何たるかを教えてくれる名シーンたちです。

■リヴァイがエレンに「悔いなき選択」を説くシーン(第6巻25話):
「お前は間違ってない。やりたきゃやれ(中略)俺にはわからない。ずっとそうだ...自分の力を信じても...信頼に足る仲間の選択を信じても...結果は誰にもわからなかった...だから...まぁせいぜい...悔いが残らない方を自分で選べ」

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ビジネスは、そして人生は、意思決定や選択の連続。そして究極的には正解なんてない。己が悔いなき選択をして、それを正解にするのみ。悔いなき選択をするためには、考え抜いて、最後は自分の直感を信じるしかない。それは、普段から自らの美意識を磨き、自らの判断基準を持てるか次第。言わずもがなの名シーンです。


■エルヴィンが死を賭して戦う覚悟を決めるシーン(第20巻80話):
「いつか答え合わせができるはずだと...何度も...死んだ方が楽だと思った。それでも...父との夢が頭にチラつくんだ(中略)そして今手を伸ばせば届くところに答えがある。すぐそこにあるんだ。だがリヴァイ。見えるか?俺達の仲間が...仲間達は俺らを見ている。捧げた心臓がどうなったか知りたいんだ。まだ戦いは終わっていないからな」

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↓の「上場からまる一年を振り返って」という記事でも参照したのですが、自らの存在意義や運命を形作るのは、周りの支えてくれた・くれている仲間の存在があってこそ。

誰かの思いや、誰かのお金や、誰かの希望や、色々なものを背負っている。ビジョンやパーパスを掲げる組織とか共同体は、そうした業を背負って動いている。リーダーには、その業を背負い、そして使命をはたすという覚悟が必要である、と。心を打たれたシーンです。


■ハンジが玉砕直前、アルミンに団長の任を託すシーン(第33巻132話):「みんなをここまで率いてきたのは私だ。大勢の仲間を殺してまで進んだ。そのけじめをつける。アルミン・アルレルト。君を第15代調査兵団団長に任命する。調査兵団団長に求められる資質は、理解することをあきらめない姿勢にある。君以上の適任はいない。みんなを頼んだよ」

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上記のリヴァイのシーンをかみしめてからハンジのこのシーン、セリフを読むと、あらためて、調査兵団という組織、そしてそのリーダーには一本筋の通った目的と資質が通底していることを感じさせられます。

筋の通った組織はどんな危機にあっても、逆境にあっても強い。リーダーたるもの、その資質を定義づけ、自ら示し、そして後進を育て、そして任命するのだ、と。ハンジの最後の雄姿、感動の名シーンでした。


最後にー「心臓を捧げた」人々へ

あらためて『進撃の巨人』は、比類なきマスターピースであり、現代に生きる我々にとっての神話に他なりません。世界と人間を問う哲学書であり、自由と愛の物語であり、社会の分断に対する未来の予言書であり、人間の自由意思について問う研究書でもあります。

後半から難解でわかりにくいんだよね、という声もたしかによく聞きますが、それを補ってあまりある滋味。もうこれを超える世界観のコミック作品は出てこないかもしれないとさえ思います。

このnote記事を読んだ人の中で、実はまだ読んでない、難解になって途中で読むのを止めたという人は、あらためて本作品を最後まで読み通すことを強くオススメいたします。

と、これだけつらつらと書き連ねてきた自分も、何を隠そう、実はアニメのSeason 1が放映開始された2013年のタイミングから本作品を追い始めた人間です💦。ここまで偉そうに語っておいてすみません🙇

振り返れば、後発のメディア媒体であるアニメから入って、コミック単行本に飽き足らず毎回の最新話をマガジンでリアルタイムで追うようになり、果ては今後の展開を考察するネット上のまとめサイトにまでどっぷり浸かることになっていました。

御託を並べてきましたたけれど、端的にいって、本当に楽しませてもらいました。心臓とまではいかなくとも、多くの時間と魂を捧げたこの作品に、あらためて深く感謝・敬礼します。

寂しさはあるものの、まだ希望はあります。そうです、実はまだアニメが残っているじゃないか!そしてアニメはFINALまで完結してくれるというのは本当にすごいこと。今後もまだ『進撃の巨人』の世界観を楽しめるということで期待大です。 最後まで読んでくださってありがとうございました!

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