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生きることは何度でも「中断」できる。

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レモンの味が甘く感じてしまうという、有名な催眠術がある。催眠術に興味があり、催眠術に好意的な人なら結構あっさりかかってしまう。

なぜ、酸味のかたまりのようなレモンが甘く感じてしまうのか?
この術理は意外と単純で、「せっかく食べるなら酸っぱいものより、甘い方がいい」と脳が無意識に“選択”を行っているからである。

それでも、催眠術に懐疑的な人には、味覚障害という症状が存在することを思い出していただきたい。過度のストレスによって、味覚を全く感じなくなってしまう。つまり、味覚は脳が支配しているという事実がある。

すべての催眠は、意図的に”選択”を誘導するものであり、最後は自らの意思で無意識のうちに自分自身に選択の命令を行う「自己催眠」とも言える。

実は、普通に生きながら人は誰でも自己催眠にかかっているということに気付いていない。上司や親友から「ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだけど」とお願いされれば、ほとんどの人が手を抜かずに一生懸命手伝ってしまう。別に、断ってもいいんだし、一生懸命やらなくてもいいのだ。

それでも、「真っ当な人間」というロールモデルを“選択”してしまっているがゆえに、自分と現実の整合性を保たせることに多大なエネルギーを消費してしまう。

進学、就職、転職、結婚、離婚、独立、引退、もう生きること自体が選択の連続である。そこから逃避するもの選択だし、充電期間と称して隠遁するのも選択である。ドロップアウトでさえ自ら選択した道である。

選択疲れから逃れる方法。
それは言語化できない世界を感じることだとわたしは思う。なぜなら、すべての選択肢は言語化できるからである。

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自分の体に耳を澄ませば澄ますほど、人は心が発する声にならない声を聞く。限られた語彙によって言語化された心の声、それに惑わされてはいけない。

仲が悪い夫婦ほど、お互いが「妻」もしくは「夫」という役割でしか相手を見なかったりする。教師と生徒という関係もそれに似ている。どちらかが、その役割を捨てたとき、初めて現実世界はフィクションと乖離する。

正義を振りかざせば、人はその正義に見合う自分を取り繕う。夢を語れば、それに恥じない言い訳で武装する。

言葉ありきのこの世界にも、言語化できないものがあり、口に出せないことがある。そして、言語化してはいけないこともあり、口に出しちゃいけないこともある。

宇宙の分別の前では、人間の分別なんて一蹴される。人は社会の一部なんかではない。人は宇宙の縮図なのだ。だからもっと、宇宙の分別を身に付けようとわたしは思う。

つらいときこそ聞くべきものは人の声ではないのかもしれない。ちなみに「命」という文字は、人がひざまずいて神意を聞くさまをかたどってるらしい。

未来の選択で、あまり悩んじゃだめだよね。生きるという、選択だけで十分なんだから。

Live your life !

※写真は川崎市内で撮ったもの。

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