井上 馨


生没年月日

1836年(天保7年)1月16日 ー 1915年(大正4年)9月1日

出身地

周防国吉敷郡湯田村 (現:山口県山口市湯田温泉2丁目)

学歴

藩校明倫館

ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン 留学

年表

1836年(天保7年)1月16日


長州藩士の井上家に生まれる。

幼名は「勇吉」。後に「文之輔」と改名する。
 
1851年(嘉永4年)
藩校明倫館 入学
 
1855年(安政2年)
長州藩士の志道家の養子となり、「志道」姓を名乗る。
 
1855年(安政2年)10月
参勤交代に付き従い江戸屋敷詰めとなる。
 
1860年(安政7年)
長州藩主毛利敬親小姓役
藩主より「聞多」の名を賜り改名。
 
1862年(文久2年)
毛利定弘小姓役
長州藩江戸屋敷詰め
 
1862年(文久2年)12月
駐日イギリス公使館焼討に参加
 
1863年(文久3年)
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン留学
 
1864年(元治元年)
馬関戦争開戦間近の報を受け緊急帰国
 
1864年(元治元年)9月
俗論党の襲撃を受ける
 
1866年(慶応2年)9月
第2次長州征討における休戦会議の長州藩代表
 
1867年(慶応3年)
新政府参与 兼 外国事務掛 兼 九州鎮撫総督参謀
 
1868年(明治元年)6月
長崎府判事 兼 長崎製鉄所御用掛
 
1969年(明治2年)7月
造幣頭
 
1869年(明治2年)11月
兄の死去により井上家の家督を相続。
このころまでに「馨」の名に改名している。
 
1871年(明治4年)7月
大蔵大輔 兼 民部大輔
 
1874年(明治7年)3月
先収会社(現:三井物産株式会社) 設立
 
1875年(明治8年)12月
元老院議官
 
1876年(明治9年)
江華島事件における日本政府特命全権副弁理大臣

1878年(明治11年)7月


参議 (~1885年12月) 兼 工部卿 (~1879年9月)

 
1879年(明治12年)
法制局長官 兼任 (~1879年)

1879年(明治12年)9月


外務卿 兼任(~1885年12月)

 
1884年(明治17年)
太政官文書局監督 兼任 (~1885年12月)
 
1884年(明治17年)7月
伯爵
 
1884年(明治17年)12月
甲申事変における日本国政府特命全権大使

1885年(明治18年)12月


第1次伊藤博文内閣・外務大臣 (~1887年9月)

 
1886年(明治19年)
臨時建築局総裁 兼任 (~1887年9月)

1888年(明治21年)7月


黒田清隆内閣・農商務大臣 (~1889年10月)

1889年(明治22年)10月


三條実美暫定内閣・農商務大臣 (~1889年12月)

1892年(明治25年)8月


第2次伊藤博文内閣・内務大臣 (~1894年10月)

1892年(明治25年)11月


内閣総理大臣臨時代理 (~1893年2月)

 
1894年(明治27年)10月
李氏朝鮮駐箚日本国公使館特命全権公使
 
1895年(明治28年)10月
乙未事変における日本国政府特派大使

1898年(明治31年)1月


第3次伊藤博文内閣・大蔵大臣 (~1898年6月)

1907年(明治40年)9月


侯爵
貴族院侯爵議員 (~1915年9月)
 
1911年(明治44年)5月
維新史料編纂会総裁

1915年(大正4年)9月1日


脳溢血からの後遺症により静岡県庵原郡袖師町(現:静岡県静岡市清水区袖師町)の別荘にて貴族院侯爵議員在職中のまま死去。

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