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悲しみの解毒剤「忘却の酒」

精神に作用する植物の歴史は、人びとが狩猟や漁労で生活していた時代にまで遡る。人類は無数の試行錯誤の結果、精神に作用する植物を偶然発見した。

アヘンもそういう植物のひとつだが、ケシの実を切って抽出した液は、すでに古代アッシリアシュメールで知られており、ケシは「喜びの植物」と呼ばれていた。

このアヘンが、エジプトから古代ギリシアにもたらされた。アヘンは幻覚作用から祭事に使われたが、痛みを緩和し身体を強化する効果が発見されて、オリンピックに向けて激しい訓練を行なうアスリートや兵士にワインや蜂蜜に混ぜたアヘンが与えられていた。

叙事詩「オデュッセイア」の中には、トロイア戦争で死んだ仲間への悲しみや嘆きで沈んでいる兵士たちを癒すために、ゼウスの娘ヘレンがかれらをネペンテス(nepenthes)という「忘却の酒」で溺れさせたという美しい一節がある。

それはオデュッセウスの息子テーレマコスが父を探す長い旅の途中で、スパルタのメネラーオス王の宮廷を訪れたときのことだった。悲しみに沈んでいた兵士たちのために宴が命じられて、ヘレンはその宴に特別な飲み物を用意した。

ヘレンは彼らが飲んでいる葡萄酒にネペンテスという薬を注いで、彼らに悪いことをすっかり忘れさせた。その薬を混ぜた酒を飲んだ者は、たとえその父母が死んでも、兄弟や愛する息子が敵の武器によって目の前で殺されても、その日一日涙をこぼすことはなかった。
マーティン・ブース(田中昌太郎訳)『阿片』(1998年)、35頁

長い間研究者はネペンテスは大麻だと考えていたが、それは間違っている。ここにはっきりと描写されているのはアヘンの効果である。自我以外のあらゆるものに対する無関心と、怒りと悲しみが抑えられた穏やかな幸福感が増進されているのである(『阿片』36頁)。

もうひとつ、この物語で重要なのは、戦争の痛み、すなわち戦争トラウマ(今でいうPTSD)や戦闘ストレスの症状を和らげようとする試みが、ホメロスの時代にはすでに行なわれていたということである。戦争がもたらす精神的なコストは二千年以上も前と今日とでは同じようなものであるらしい。(了)

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