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幸福感をまとったからだのつくり方—35過ぎて私の思うこと。

 ワキのうしろや背中の真ん中あたり、ウエスト……「脂」と表現するのが適切であろう、やわらかい贅肉をつまみ上げることができる。からだだけではない。頬やあごから耳にかけてのフェイスラインにも脂肪がついている。「加齢で頬がこけてしまったから」という理由で、頬に脂肪やヒアルロン酸を注入する機会は、私には一生こないだろう。そこで浮いたお金は別の施術への投資に回すことになる。

 昔はもう少しほっそりしていたのに。こんなところに肉はついてなかったのに。キックボクシングで勢いよく蹴り出すとき、腰まわりの贅肉が存在を激しく主張する——。

 そうやって、自身のからだを覆う脂を身近に感じるけれど、脂を減らすための行動に到ることがないのは、単に痩せようとしていないからだ。痩せなくていいとすら思っている。

 身長163cm、細いときは55kgで、増量すれば+2kgほどにはなる中年体型。私だってわかっているよ。痩せたら動きがかろやかになり、からだも軽くなり、膝への負担も減り、いいことが多いと。しかし、痩せようと気合いを入れると、ストレスとの戦いがセットでついてくる。

 とくに10〜20代のころ、食事制限という日本語的な意味での「ダイエット」をたびたびしてきて、不幸せな気分を何度も味わったことは忘れられない。当時は「痩せたら今よりきれいになれるから、あの男性も振り向いてくれる」といった下心に突き動かされ、だらけがちな自分をしばく日々。

 食事制限という自分的には生き地獄のなか、ストレスを溜めながら体重を減らしていたけれども、たかが2〜3kg落としたところで人生が変わるほど現実は甘くはなく、恋愛対象から注目されるようになるわけでもなく、実質的には何も変わらなかった。

 それから時を経て気づいたのは、「(誰か)のために」と自分以外の何者かに意識を向けて行動しても、幸せでもなければ、楽しくもないということだ。食事制限もその一例で、「気になる人に意識されるために」と自分のきもちを疎かにした状態で、いかにも不幸せだし、心身がアンヘルシーで可哀想にと、当時の自分をハグして「もうやめなさい」と諌めたくなる。

 以降は「自分が幸せでいるために」としか考えなくなった。食事制限は自分を幸せにしないし、楽しいきもちにもさせないからしない。そのときどきで食べたいものをいただくのは、自分を幸せに、楽しくさせる行為だから毎日する。キックボクシングは自分に楽しいきもちをもたらしてくれる時間であり、からだを引き締めることにつながり、運を動かす“運動”であり、一石三鳥だから通う。ランニングマシンを使うのもそれと同じ。こんなふうに、自分本位のかたまりともいえる考え方をしている。

「好きな人に色っぽいと思われたい」「彼が欲情するからだでいたい」といった他者目線は捨てている。

 基準は「自分の心身全体が喜ぶか、どうか」に置き換わった。そうやって心とからだの声に素直に過ごしていると、健康診断の折にしか数字を計測しなくても、極端に増量することはないし、パンツやスカートのサイズもずっと変わらない。結果的に、一般的な中年らしい丸みのある肉体ではあるけれど、ほどよくヘルシーな状態を保てて、自分はもちろんパートナーからも愛されるからだになるから不思議だ。

 自分のきもちを置いてきぼりにするのは不健康だ。きもちとからだは連動しているから、幸せなきもちで過ごす時間が多ければ多いほど、幸福感をまとったからだがつくられるのだと思う。

このコラムは最近読んで感銘を受けた『40過ぎてパリジェンヌの思うこと』の日本版を作りたいと思い立って書き始めたシリーズものです。



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