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地方転勤は「左遷」か(転じて、東京転勤はいつも「ご栄転」なのか)


この前の土曜の昼間、もうすぐ返却する社用携帯が珍しく鳴った。

なぜか同時多発で、朝刊にも夕刊にも書いた記事が載る日。退職を控えた身で、最近はかつてほど携帯が鳴らないだけに、緊張が走る。記事が載った日、あるいは締め切りが迫った時間に仕事の携帯が鳴ると、いつもそうだ。校閲かいわいから何か指摘か、とか、読者からクレームが来たかしら、と。

出てみれば、広島の大切な取材先。「今日の中国新聞の山際寿一さんの記事を読んで、園子さんの考え方じゃねと思ってそれを電話して伝えたかった」と。なーんだと胸をなで下ろし、読みかけで食卓に置いていた新聞の当該記事を読む。

オピニオン面「今を読む」欄。「新しい時代の生き方」と題し、ゴリラ研究で知られる氏が、コロナ時代の暮らし方について論じた最後にこうあった。

「新型コロナウイルスによる感染症でこの1年、私たちは地域に籠って暮らしてきた。果たして、そこが自分の好きな場所であること、カミが宿る場所であることを確認できただろうか。これからの時代は、人々が新たに自分の故郷となる場所を見つけ出すことになる」「労働条件や親族の絆だけが住む場所を決定する要件ではない。豊かな自然と安心を与えてくれる人々とのつながりが新しい基準となる。環境倫理はそれを求める過程で必然的に心に宿る。新しいアニミズムがその鍵を握っていると私は思う」

山際氏の「新しい時代の生き方」が載った「今を読む」欄に、今日はこんな記事が載った。京都大こころの未来研究センター教授の広井良典氏が書いた「コロナ後の日本」。東京など都市への一極集中型か、地方分散型かに関するAIによる調査(2017年公表)が、地方分散型が望ましいとの結果を導いたことについて説明。これについて、「まさにコロナの流行に伴って明らかになった『集中型』社会の脆弱性や、過度の『密』がもたらす感染拡大のリスクを先取りしていたような内容」と説明した。

その上で、ポストコロナにおける包括的な分散型社会について論じた。いわく「人生の分散型」社会。「『昭和』に象徴されるような、人口や経済が拡大を続けた時代は、『全てが東京に向かって流れる』とともに、人々が『集団で一本の坂道を上る』ように単一のゴールを目指していた」と振り返り、そこからの根本的な転換を意味する「分散型」社会を山登りに例え、「山頂に立ってみれば、視界は360度開け、従って各人はそれぞれの道を選び、従来よりも自由度の高い形で自らの人生をデザインしつつ、創造性を伸ばし、好きなことを追求していけばよいのである」と。

なんとなく、背中を押される思いになった。

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住む場所をどう決定するか、つまり選ぶか。その選択は、昨秋から年明けにかけて、自分に提示された(青天の霹靂の)東京への人事異動をきっかけに考えてきたことだ。考えた結果、東京に行かずに今いる広島に残ることにした。自分のルーツがある場所で、主体的に、能動的に、そして自由に、この街のことを考えていきたい(できれば書いていきたい)と思ったし、シンプルにいつだって私は東京を目指して生きてこなかったのだ。

といって、東京を選択している人をどうこう言うつもりは毛頭ない。それはその人たちの選択だから。ただ私は全国紙記者として、世の不公正や不条理を見つめ、生きにくさを抱えながら生きている人たちのことを記し、それによってちょっとでもマシな日本社会になることにつながれば、という思いでやってきた中で、どうしても権力的なものに近いところに身を置くとか、長いものに巻かれるような立ち位置に身を置くとか、そういうことをどうしても志向する気にならないのだ。それに、地方生まれで東京でも育ち、でも小学校から高校までほとんど海外にいた人間として、日本というシマグニは、東京だけでは説明できない、多様性溢れる国だということをよく知っている。その多様性がもっと尊重されていいし、されるべきだとも思っている。

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なのに、入社以来神戸、広島、大阪と(育休中は連れ合いの異動にくっついて東京だけど)、いい年こいてずっと地方にいると、社内でも何度も「向上心がない」「いつまでたっても半人前」みたいな視線を浴びせられる。「東京でもっと視野を広げて」とかなんとか(今回も言われた)。なんどか「宮崎さんは帰国子女で英語もできるのに、なんで東京に行かないの」とも言われた。帰国子女は地方にいちゃいけないんだろうか。

でも、ごめんなさい。モノや機会や選択肢が溢れている東京であっても、私は目指していないのだ(東京にいる人はみな一人前なのでしょうか)。手段としては、人生のフェーズ次第でありえるかもしれないけれど、東京自体が目的にはならない。

それに、新人記者が最初に配属される地方総局に、子育てをしながら働いている女性記者の姿があまりに少ない。記者になりたての若者は、今各所で問われている「多様な働き方」のある職場だと感じがたい。「子連れで広島へ」という人事異動案を2017年に受けたのはそんな理由もあった。

一般的に、地方転勤というと「左遷」というイメージで語られる。そして、東京と言えば「ご栄転」。「地方に飛ばされる」という表現はあっても、「東京に飛ばされる」とは聞かない。でも、そういう受け止めがいつまで経っても当たり前でいいのだろうか。

コロナは、日本という国が、長い間後回しにしてきたこと、忙しさにかまけて放置していたこと、あるいは軽んじてきたことを、わーっとあぶり出した。いまの政治の混乱をみれば明らかだ。それと同時に、広井氏ら専門家の方もいうように、東京一極集中の危険性と限界もあらわにした。地方の首長がそれぞれの地域の事情に鑑みて主体的な政策判断をする例もなんどもみた。なにより、リモートで仕事をすることが当たり前になった。広島にいながら、東京の記者会見に参加できる。広島にいながら、ブラジルの被爆者と、顔を合わせながらの取材ができる。

こういう時代だからこそ、どの地域に籠もるか。自分がどこに身を置くか、どの街の空気を吸い、どんな人々とリアルに交流し、どこに生活の杭を打って暮らすか、が問われる。というか、その人の価値観や人生観が如実に現れるんだな、と思う。

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自分が、めぐりめぐってこういう自分であることに、少しでもなんらかの意味を見いだすべく。







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