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【『風景によせて2022』コラム第1回】時間が問題になるとき――〈LST〉と時間① 《後編》

この記事は、前編と後編に分かれています。前編は以下のページからご覧ください。

▷風景の中の時間の複層性

次に、〈LST〉における「複層性」について考えてみたいと思います。これは『風景によせて2021 はらいずみ もやい』を作っていた頃、よく取り沙汰されていたキーワードです。複層性とは読んで字のごとく、複数の層をなす性質のことです。メモを見返すと、ソノノチにおいて複層性という語はいくつかの意味で使われてきたことがわかります。

例えば、次のような場面。

①上演が行われる「原泉」の地理的特徴として

「原泉は複層的、マトリョーシカ的。1つのものにいろんなフレームが重なっている感じ。額縁の中に額縁があって、合わせ鏡、みたいな感じ」【210827】

②「風景」の共通的特徴として

時間の流れのちがうものが共存している(複層性)
→一定のリズムではない。川の流れのように、遅いときと早いときがある。
風景のあらゆる場所に息づいているリズムがあるじゃん!って気づいて、自分もその中の一存在として自分の時間を回復できる。【210726】

③〈LST〉の様式的特徴として

中谷さん「人がわらわらいて、広場的なもの、見る人が自分の時間の流れとコミュニケーションするための作品。それを別のお客さんが見ることもできるという複層的な作品なんだと思っています」【210818】

それぞれに上演会場や作品が複層性と関連付けて語られています。これらの用法は互いに関係していますが、着目しているレイヤーが違います。①では原泉という土地の特徴の一つとして、②では「風景」の共通的特徴として、③では上演様式〈LST〉の特徴として、それぞれ複層性が用いられています。

この中で、特に時間に言及があるのは②と③ですので、順に見ていきます。まずは②について*1。②で言及されているのは風景の共通的特徴としての時間の複層性です。

ある日、公園のベンチに座った。コロナ禍、私は目まぐるしく変化する情報の中で混乱と無気力を感じていた。そんな中で風景を見た時、束の間自分らしい時間が回復するような気がした。風景とは、数日間の短い命を生きる虫と何十億年もの時間を燃える太陽が共存し、それぞれがそれぞれの時間を刻む空間だ。【210930】

この中谷さんの経験に基づく引用は、〈LST〉における複層性の意味を説明しています。風景は複数のものから構成されていますが、それぞれ独自のリズムをもってその場に存在しています。すなわち「数日間の短い命を生きる虫と何十億年もの時間を燃える太陽」を風景は共に含みこみます。まさに「時間の流れのちがうものが共存している」状況です。〈LST〉はこのような風景の性質を前提として作られています。

Photo: Wakita Tomo

▷自分らしい時間の流れ

先程の引用は以下のように続きます。

私は相対的に、風景を構成する様々なものの一つになったのだ。ぼーっとただそこにいることで、私も固有の時間をもつ生き物だと気づいた。この風景は私が存在することのできる場所なのだと。【210930】

ここの引用によって、複層性がなぜ風景の性質でありながら同時に〈LST〉の様式的特徴とも言えるのかがわかります。風景の中の様々なものの独自性への気づきは、自己の独自性への気づきにつながります。自分もまた、虫や太陽のように、独自のリズムを持つ存在である、となる。さらに、自分を含めた様々なものが「風景」という一つの空間を構成すると捉えられていることも重要です。自分は、風景の中の独立した部分であると同時に、風景と一つでもある、ということです。

〈LST〉を鑑賞しながらこのような気づきは連鎖的に連なっていきます。一言でまとめるなら、〈LST〉とは風景の複層性を見えやすくする装置である、と言えそうです。

この装置は空間的な同一化と時間的な異化の両側面を含み込んでいます。空間的な側面に目を向けると、鑑賞者の体験とは日常的な空間から一時的に離脱し、非日常的な風景の中に入っていくというものです。劇場空間のように区切られていない風景の中で、鑑賞者は劇場で演劇を見るとき以上に空間に同一化していきます。

一方、その空間を構成する様々なものはそれぞれ独自の時間を持っている。空間に身を置き、構成要素を丁寧に見れば見るほど、鑑賞者自身のリズムがそのどれとも同期しないことが明確になっていきます。これは時間的な異化の経験と言えます。

そしてこの異化を経て、「自分らしい時間の流れ」が立ち上がります。

鑑賞者は⾵景演劇を通してその⾵景がその瞬間その場所にしかないという事実(⾵景の唯⼀性)にふれ、⾵景が⽴ち上がる瞬間に⽴ち会い、それを構成するあらゆるものと居合わせることになる。この経験は鑑賞者⾃⾝の唯⼀性への気づきと「⾃分らしい時間の流れ」の回復につながることが期待されている。【「はらいずみもやい」報告書】*2

ソノノチは〈LST〉が「自分らしい時間の流れ」を「回復」させると説明しています。これは自分らしい時間の流れの喪失(「目まぐるしく変化する情報の中で混乱と無気力を感じていた」状態)を前提した上で、上記の空間的同一化/時間的異化のプロセスである、と言うことができます。

また、③の引用には「それを別のお客さんが見ることもできる」とあるように、これらの連鎖的な気づきは自分一人で完結するのではなく、他の鑑賞者の経験と重ね合わせられます。他の人も自分と同じように自分らしい時間の流れを回復している、というさらなる気づきが、劇場の外での〈LST〉の鑑賞をすぐれて演劇的(集合的)な経験とするのです。

●これらの特徴はどのような時間観に基づくと言えるか?

さて、ここまではソノノチにおいて時間がどのようなときに問題になるのかをみてきました(段階1)。ゆっくりさ、風景の中の時間の複層性、自分らしい時間の流れ、という3つの点は、〈LST〉ならびにソノノチを特徴づけるものです。しかし、それぞれのパートで論じたことはぶつ切りの断片となっています。いまのところ、ゆっくりさと他の二つのポイントのつながりははっきりとは明示されていません。時間の複層性→自分らしい時間の流れの回復という〈LST〉の鑑賞体験がどのような時間観とつながるのかも曖昧なままです。
次回は、ここまでのいろいろな話に、アンリ・ベルクソンの時間論を使って補助線を引こうと考えています。100年以上前、ベルクソンは「時間」が実は空間的に捉えられてきたのではないかと論じ、独自の時間理解を編み上げました。もちろん、専門家でない私にとってベルクソンを論じることは手にあまるのですが、〈LST〉における時間を理解する一つの補助線としてベルクソンの時間論は使えるのでは?という浅薄な直感が思いもよらない何かにつながればいいな、とこれまた無責任に突っ走ろうと思います。
気長に、時間の許す限り、お付き合いください。

*注釈
1:「複層性」それ自体については追って詳しく書く予定です。
2:引用の中で「風景演劇」という語が用いられていますが、一旦〈LST〉と同義であるとします。詳しい両者の違いについても当コラムで追って考えたいと思います。

筆者:柴田惇朗(しばた・じゅんろう)


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