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【『風景によせて2022』コラム第2回】「純粋持続」を捉えるために――〈LST〉と時間②《後編》

この記事は、前編と後編に分かれています。
前編は記事の一番下のリンクからご覧ください。

●「純粋持続」を捉えるための〈LST〉

▷「ゆっくりさ」

続いて、「ゆっくりさ」について。上で確認したとおり、ゆっくりとしたペースで作品が展開することは、記号的表現からの脱却という一つの意味があります。そこで、ここではいかなる質の「ゆっくりさ」が目指されるのかについて考えてみます。

Photo: Wakita Tomo

「たびするつゆのふね」のクリエイションの過程で、パフォーマーの歩く速度をBPMで指定してみてはどうか、という案が持ち上がったことがありました。手前の道では非常にゆっくりとしたテンポであるBPM30(分速30歩)で歩き、もう一つ遠い道ではBPM35で歩く。事前にこのように指定し、パフォーマーはこのテンポをイアモニターで聞きながらパフォーマンスを行います。パフォーマーはそれぞれ客席からの距離が異なりますが、BPMを指定することで動きが同期しているように見せることができます。極端にゆっくりとした動きがシンクロすることで、パフォーマーが人ならざるものに見える。このような「抽象化」を狙っている、と演出・中谷さんはその時点では語っていました【221007】。

しかし、イアモニターでBPMを聞きながらパフォーマンスを行う案は、最終的に廃止されました。その経緯を中谷さんは次のように説明しています。

テンポ主導で歩くということで、目指す表現とは遠いものになっていました。(機械的というか、時間に操られてせかせかいるように感じたのです。)私達が目指しているのはただ歩くことではなく、[略]目の前の本当にゆっくりと変化していく風景を入り口に、一瞬が永遠に感じられると同時に、永遠が一瞬に感じられるような、そんな時間をもたらすことのできる表現です。

【たびするつゆのふね プロセス便2022 ディレクターズノート[4*]】

「機械的」「時間に操られてせかせかいる」といった表現は、「時計の時間」を思い出させます。実際、この案を試した稽古のあとの話し合いである俳優は「BPMに集中してると全体感が把握できなくなる」と話していました【221007】。確かに、BPMに合わせて歩くことは、演じている側からすると常に時間の空間的側面を意識し、一拍一拍に従わされるような経験でしょう。

結局、上演でパフォーマーは情感を感じさせる独特のキューを聞きながら演技を行いました[5*]。興味深いのは、その時点で演出上の合理性があったとしても、また観客には耳元で拍を聞いて行為しているかどうかは直接わからないとしても、この案が不採用になったことです。

ここに〈LST〉をつくる上での思想が宿っていると感じます。これまでの認識が正しければ、〈LST〉は鑑賞者が純粋持続に接近するための方法です。しかし、それだけではないのかもしれないと、この事例を見て思います。鑑賞者だけでなく、演者の純粋持続への接近も目指されているように思えるのです。

パフォーマーが演技をする上での内面は外からは見えないため、一見パフォーマンスに影響はないように思います。しかし〈LST〉においては再現性のあるゆっくりさを作り出すにとどまらず、「ゆっくり」という主観的状態が志向されます。〈LST〉という体験を提供する側と享受する側がともに純粋持続に接近していること。これが〈LST〉において目指されている「ゆっくりさ」の質なのです。

Photo: Wakita Tomo

▷「自由」を目指す演劇

ここまでの話をまとめると、次のようになります。〈LST〉とは純粋持続に接近するための方法である。その際、観客だけでなく、パフォーマーも純粋持続に接近することが目指される。行為するにしても、それを観るにしても、分析的にではなく、直観的にそれを捉えることで、純粋持続の状態に身を置くことができる。〈LST〉で開発されてきた様々な方法は、直観的に世界を捉えるためのものである。

「自由に行動するということは、自己を取り戻すことであり、純粋持続の中に身を置き直すことなのである」、とベルクソン(1889=2001:276)は言います。彼の時間論は人間の自由を説明することが最終的な目標でした。そして彼の結論は、人が本来の純粋持続に身を置くことで自由になれる、というものでした。

〈LST〉も同じく自由に行動するためのツールであろうと思います。正確に言えば、自由は分析的な方法で世界に触れることで制限されてしまう(例えば、BPMで身体を統御することで)。〈LST〉という方法は、より直観的に世界に触れられるための方法を試行錯誤、取捨選択しながら作り上げる営みなのだと思います。

●次回に向けて

次回はどのように〈LST〉の中で「記号」が扱われているか、考えはじめようと思います。出発点は近頃ソノノチの稽古場でしばしば話題になるソシュールの記号学で用いられた「シニフィアン/シニフィエ」概念になりそうです。ソノノチがどのように分析的な理解から直観的なクリエイションに向かって行くのか、考えていきます。

*注釈
4.この全文はここから購入して読むことができる。

5.キューが用いられた経緯などに関してはこちらに詳しい。柴田惇朗,2023,「「段取り」じゃない、「LINE通話」の使い方――テクノロジーは舞台芸術にどのように移入されるか?」

[参考文献]

Bergson, Henri-Louis, 1889, “Essai sur les données immédiates de la conscience”.( =中村文郎訳,2001,『時間と自由』白水社.)
釜掘幸, 2003,「ベルクソンにおける持続の観念について」『比較社会文化研究』13: 26–31.

Lawlor, Leonard, and Valentine Moulard-Leonard, 2022, “Henri Bergson” The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Metaphysics Research Lab, Stanford University. https://plato.stanford.edu/archives/win2022/entries/bergson/

中村昇, 2021,「哲学者はなにを言っているんだ? 7. 直観という方法」トイ人.https://www.toibito.com/toibito/articles/%E7%9B%B4%E8%A6%B3%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%96%B9%E6%B3%95

中田光雄, 2015,「ベルクソン哲学の基本概念」『日本大百科全書(ニッポニカ)』.https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%A6%82%E5%BF%B5-1614571

野瀬彰子, 2019,「ベルクソンにおける持続しているものの実在」『東京大学哲学研究室『論集』』(38):41–54.

Thomson, Jonny, 2021, “Why Philosopher Henri Bergson Rejected the Word ‘Time.’” Big Think. https://bigthink.com/thinking/henri-bergson-time/.


●筆者プロフィール
柴田惇朗(しばた・じゅんろう) 
芸術社会学。主テーマは「小劇場演劇・パフォーミングアーツの価値の社会的生産」。ソノノチでは過去数公演でアーカイブとしてプロジェクトに参加しながら、フィールドワークを行っている。立命館大学大学院先端総合学術研究科・博士後期課程、学振特別研究員DC1。



●前回記事
『「純粋持続」を捉えるために――〈LST〉と時間② 《前編》』はこちらから

●『風景によせて』連載コラムの全編はこちらから


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