「ヘビメタ」はなぜ長髪なのか ―現代のマスキュリニティの複数性?―

もうだいぶ前(10年近く前?)になるが、日本英文学会中部支部大会で、 「マスキュリニティと他者」というシンポジウムがあり、私もパネリストに加えていただきました。

この発表はまだ文章にしてないのだけれど、一応プロシーディングスだけは書いて『中部英文学』に掲載されました。ただ会員以外の目にはほとんど触れることがなかったと思うので、ここに再掲させていただきます。

********************************************************

 イギリスにおいては男性性が階級の問題と切り離せないように、アメリカにおける男性性の構築は、身体的な頑健さと個人主義に彩られている。またヨーロッパにおいて身体性は女性性と結び付けられるのに対し、アメリカでは身体こそがマスキュリニティの拠り所である。この身体を巡るイギリスとアメリカの対称性が、アメリカにおけるマスキュリニティの問題を考える鍵となる。

古来男性性と暴力あるいは野蛮さは、つねに共犯的な存在として語られてきた。だが19世紀後半にこの生物学的根拠が曖昧な、あくまでfigurativeなはずの男性性と暴力、野蛮さとの結び付きを科学的事実とするdiscourseが発生してくる。人間が生物進化の頂点に立つというダーウィンの主張から、自然淘汰を乗り越え生存競争を勝ち抜くために、男性は生物学的に闘争への志向や暴力的性向を刷り込まれている、とされるのである。

このDegenerationへの恐怖と執着が、アメリカ特有のNaturalismを彩っている。ヨーロッパの自然主義は人間の生の基盤として、人間社会の生物的次元を描くことに主眼を置いていた。それに対して、アメリカの自然主義文学では、隔世遺伝や動物性の露呈により退化や先祖返りをする存在が執拗に描かれる。アメリカにおける自然主義は、男性性と自然的・野性的な本能に生物学的な紐帯を見出す思考の産物なのである。

John Pettegrewは、このアメリカ特有のdegenerationへのambivalentな態度がアメリカのマスキュリニティ構築に重要な役割を果たしたこと、またそのマスキュリニティの構築と発露の場としてのフロンティアが消滅したことが逆に、暴力性や野性性とマスキュリニティの結合を強化した、と述べている。Frederic Jackson Turner”The Significance of the Frontier in American History” (1893)で、アメリカ人はフロンティアの開拓を通じてマスキュリンな”Rugged Individualism”を形成してきたと主張した。そのフロンティアの消滅はアメリカ人の自我の危機である。そこでターナーはマスキュリン・アイデンティティ維持のために自然回帰、自然志向を訴える。

Edgar Rice BurroughsTarzan of the Apes (1914)はこうした男性性と暴力・野性への志向をよく表したテクストである。文明の象徴であるスーツを脱ぎ捨てると、そこにたくましい野性の身体が現れる。これはその後のスーパーマンにも引き継がれるアメリカン・ヒーローのモチーフでもあり、ターザンは都会で被雇用者として働く男性たちのマスキュリン・ファンタジーなのである。そして野性をあこがれの対象とする男性の視線は、その後も延々とアメリカ大衆文化に引き継がれていく。

だがこの野性への憧憬は、文明化したアメリカ人にとっては実現不可能なファンタジーでしかない。大多数の男性のマスキュリニティを維持するためには、このファンタジーを現実的なものに書き換える必要が生じる。そこで利用されたのが狩猟とスポーツである。19世紀末から流行した狩猟においては、セオドア・ルーズベルトがそのイコンとして重要な役割を果たす。この延長線上に20世紀のヘミングウェイのパブリック・イメージがあるのは間違いない。ヘミングウェイがLIFEESQUIREのような雑誌に登場することで男性的なイメージを定着させえたのも、こうした男性性と野性性の共謀関係が存在していたからに他ならない。またスポーツ、特にカレッジ・フットボールが、その激しさゆえに大人気を博していくのも同じころである。アメリカの男性性はこうして暴力的・野性的なものとときに対峙し時に同化し、自らも暴力的な激しさとして発現するものとなる。またそのスポーツにおける序列化の一つの指標として身体的データが利用され、強靭でたくましい肉体こそが男らしさの証であるという言説が定着する。

一方ほぼ同時期に、男性性に付与された特徴を獲得しようとする女性たちが現れてくる。女性イラストレーターのCharles Dana Gibsonが1895年に描いた”The Coming Game: Yale vs. Vassar”は、そうした女性アスリートが男性を脅かしつつある状況を的確に捉えている作品である。Judith HalberstamFemale Masculinity (1998)で、男性性とは構築され獲得されるもの、女性にも獲得可能なものであることを訴えている。”Female Masculinity”とは、白人男性が自分たちの「男性性」を構築する際に抑圧し排除した多様な”masculinities”の残滓であり、”dominant masculinity”へのアンチテーゼである。

こうしてマスキュリニティのパフォーマティヴィティ、社会構築性が露呈すると同時に、このマスキュリニティの獲得が困難な、あるいはその獲得に失敗した男たちは深刻なアイデンティティ・クライシスに陥る。彼らは特定の活動の中で独自の価値体系を作り出し新たな序列を競うようになる。今回注目したのは、20世紀後半から若者文化の中心にあるポップ・ミュージック、その中でも特にヘヴィ・メタルというジャンルである。

その音楽そのものは激しく暴力的で画一的な様式に従って作られるもので、ギャングスタ・ラップと並んで暴力的で性差別的であるとして、歌詞が検閲の対象ともなった。ところがRobert Walserは「ヘビメタ」ファンは圧倒的に10代の男性、それも社会的・身体的・経済的な力を欠いた、男社会の「負け犬」的存在であるとする。またヘヴィメタルは女性蔑視や女性嫌悪の裏に、女性恐怖を隠し持つジャンルでもある。女性は男性の自己抑制を脅かす存在として、性的な不安の源泉として常に立ち現れる。従ってヘヴィメタルの歌詞やビデオに登場する女性たちは、男性の幻想が生み出すエロティックな存在であると同時に、男を脅かすファム・ファタール的な存在でもある。

このセルフ・コントロールは音楽的には、「ヴィルトォーゾ」信仰(名人芸的にテクニックをひけらかすこと)や、ファン自身の演奏活動への傾倒として現れる。彼らは高度な演奏技術を獲得するために禁欲的なほどの努力を重ねることを厭わない。だがこの女に脅かされる男たちは、自らの性的能力の欠如や男としての自信のなさを露呈させる存在として女性を意識しミソジニストとなる。

その一方で、ヘヴィメタルの場合に特徴的なのは、そのミソジニーが暴力的な性へと向かわず、現実の女性からの逃走と同時に、その女性的なものを内に抱え込むことで完全な存在になろうとする、両性具有への指向として現れることである。外見からは生物学的性別を判断できないほどの女性的な記号を身に纏うこととミソジニーが同居するという奇妙な現象が、ヘヴィメタルの歪んだ男性性への希求を示している。彼らは女性を排除し自らをアンドロギュノスと化すことで、幻想としての全能感を獲得し、完全な存在を希求する。

へヴィメタルはタナトスにとらわれたイメージを執拗に産出し続ける。タナトスとは動かないこと、変化しないことを望むことであり、それはジャケットに見られる死や髑髏、墓場のイメージのみならず、常に変化を求めない音楽そのものことからも知れる。

身体的優越性を基盤とした20世紀アメリカの男性性が、現実の男性すら抑圧し排除してしまい、その排除された男性たちが独自の価値体系を作り出しそれに従って構築された世界の例として、ヘヴィメタルを採り上げてきた。だがこれは結局のところ、新たなマスキュリニティの規範の創出、その新たな規範の中での序列化を意味する。これは新たな抑圧と排除を作り出すだけでなく、60年代のカウンターカルチャーのように結局は既存のマスキュリニティとヘゲモニーを巡って争うだけではないか。この抑圧と排除の構造の中でせめぎあっている限り、自分たちのマスキュリニティを獲得しそれを覇権的な位置に置こうとしている、そこは決してユートピア的な場所ではないことを忘れてはならない。

Bibliography

Burroughs, Edgar Rice.  Tarzan of the Apes. 1914. New York: Penguin, 1990.

Connell, R. W.  Masculinities: Second Edition. Berkeley: University of California Press, 2005.

Giddens, Anthony.   The Transformation of Intimacy: Sexuality, Love & Eroticism in Modern Societies. Stanford, CA: Stanford University Press, 1992.

Goodwin, Andrew.  Dancing in the Distraction Factory: Music Television and Popular Culture. Minneapolis, MI: University of Minnesota Press, 1992.

Halberstam, Judith.  Female Masculinity. Durham: Duke University Press, 1998.

Kaplan, E. Ann.  Rocking Around the Clock: Music Television, Postmodernism & Consumer Culture. London: Routledge, 1987.

McClary, Susan.  Conventional Wisdom: The Content of Musical Form. Berkeley, CA: University of California Press, 2000.

-------. Feminine Endings: Music, Gender & Sexuality. 1991. Minneapolis, MI: University of Minnesota Press, 2002.

------- and Richard Leppert ed.  Music and Society: The Politics of Composition, Performance and Reception. Cambridge: Cambridge University Press, 1987.

Pettegrew, John.  Brutes in Suits: Male Sensibility in America, 1890-1920. Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 2007.

Walser, Robert.  Running with the Devil: Power, Gender, and Madness in Heavy Metal Music. Middletown, CT: Wesleyan University Press, 1993.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?