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そんそんの教養文庫(今日の一冊)

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一日一冊、そんそん文庫から書籍をとりあげ、その中の印象的な言葉を紹介します。哲学、社会学、文学、物理学、美学・詩学、さまざまなジャンルの本をとりあげます。
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2024年5月の記事一覧

最高の数学は美しいばかりではなく重い——ハーディ『ある数学者の弁明』より

ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ(Godfrey Harold Hardy, 1877 - 1947)は、イギリスの数学者。初期の頃から解析学全般にわたり広い業績があるが、なかでも解析的整数論に与えた影響は大きい。内容はゼータ関数の零点分布や近似関数等式、加法的整数論での円周法、ディオファントス近似などに著しい業績がある(「ハーディ・リトルウッド予想」などほとんどリトルウッドとの共著)。インドの無名の若者だった数学者ラマヌジャンは、ハーディによって初めて天才数学者として開花し

イエスの「全時的今」とベンヤミンの「現在時」——大貫隆氏『イエスという経験』より

本書『イエスという経験』は、宗教学者・聖書学者の大貫隆氏が執筆し、当初2003年に単行本で発刊されたものである。一般向けの著書でありながら、宗教学的にも緻密な論理を展開したものであり、キリスト教関係者のみならず、聖書学の研究者などからも注目され、多くの論評がされたという。本書では大貫氏独自の「イエス論」が展開されており、彼がとりわけ心がけたのは、生前のイエスの言動全体を意味づけていた神の国の「イメージ・ネットワーク」を再構成することと、イエスが身をもって生きていた独特な「全時

ハイデガーはなぜナチスに加担したか——ハンス・ヨナスのグノーシス主義的解釈

ハンス・ヨナス(Hans Jonas、1903-1993)は、ドイツ生まれの実存主義哲学者。ハイデガーとブルトマンに学び、ホワイトヘッドのプロセス哲学の影響を受けた。彼を著名にしたのは主著『責任という原理』であり、この本で近代技術が人間に及ぼす影響を論じ、「未来への責任」という概念を明確にした。また彼は実存主義の立場よりグノーシス主義を研究した書物も著している。ヨナスはユダヤ人であったことから、師であったハイデガーのナチス加担は彼に大きな衝撃を与えた。また彼の母はアウシュヴィ

済州島四・三事件の悲劇と「レッド・コンプレックス」

済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮李承晩(イスンマン)政権下の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察など朝鮮半島の李承晩支持派が1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察及びその支援を受けた反共団体による大弾圧をおこない、武装蜂起で多くの民間人が死亡した。 合計3万から8万

異常記憶能力者と共感覚——ルリヤ『偉大な記憶力の物語』を読む

アレクサンドル・ロマノヴィッチ・ルリヤ(Aleksandr Romanovich Luriya、1902 - 1977)は、ソビエト連邦の心理学者。レフ・ヴィゴツキーらとともに文化歴史心理学を創設したほか、神経心理学の草分けとなった。失語症や共感覚に対する詳細で個別的な臨床観察・症例研究を通じ、高次の精神機能に関する独創的な著作を残した。ルリヤは、臨床医学が症候群として病気の全体像を捉えようとするのにならい、心理現象を別々の特性としてではなく、対象者の心理的生活全般の変化に関

日本思想の無構造性と思想的雑居性——丸山眞男『日本の思想』を読む

丸山眞男(まるやま まさお、1914 - 1996)は、日本の政治学者、思想史家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。専攻は日本政治思想史。専門学問は、「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ、経済史学者・大塚久雄の「大塚史学」と並び称された。初期の代表作は『日本政治思想史研究』(1952)。西欧思想と東洋古典の素養を兼ね備えた学識を持ち、戦後民主主義思想の展開に指導的役割を果たした。〈丸山学派〉と称される後進の研究者も輩出し、日本政治学界の量的な飛躍への貢献も大きい。 本書『

現実世界の判断不可能性——濱口竜介監督『悪は存在しない』を観て

濱口竜介監督作品『悪は存在しない』のパンフレットより、濱口監督と編集の山崎梓氏のクロストークから引用。本作品は『ドライブ・マイ・カー』(2021)以降の長編映画最新作で、第80回ヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞している。ストーリーは以下のようなものだ。 長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割

右手になぜ優越性があるのかを社会学的に探究する——エルツ『右手の優越』を読む

ロベール・エルツ(Robert Hertz、1882 - 1915)は、フランスの社会学者・人類学者である。デュルケーム学派。将来を嘱望されながらも第一次世界大戦によって、33歳でその短い生涯を閉じた。本書『右手の優越 - 宗教的両極性の研究』は、現在の象徴体系、認識体系研究の先駆けとなったフランス社会学黄金期の著作である。 エルツはデュルケムを中心とする「社会学派」の一人であり、方法論は根本的にはデュルケムに基づいているが、その研究は独創的見解を含んでいる。「死の集合表象

身体の「獄中の聴衆」としての感情——ダマシオ『デカルトの誤り』を読む

アントニオ・ダマシオ(Antonio Damasio, 1944 - )は、ポルトガル系アメリカ人の神経科学者。意識・脳・心身問題・感情・情動などを研究テーマとする。特に意思決定や価値判断に関する「ソマティック・マーカー仮説」の提唱者として知られる。その研究は神経科学だけでなく哲学・心理学・ロボット工学にも影響を与えている。 ダマシオの1994年の著書『デカルトの誤り(Decartes' Error)』は、理性的な思考と決断の生理学、そしてその能力がダーウィンの自然淘汰によ

老いることと自己をととのえること——『ダンマパダ(真理のことば)』を読む

ダンマパダ(巴: Dhammapada)は、初期仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズム)で伝えた、韻文のみからなる経典である。漢訳は、法句経(ほっくぎょう)。「ダンマパダ」とは、パーリ語で「真理・法(巴: dhamma)の言葉(巴: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する。パーリ語仏典の中では最もポピュラーな経典の一つである。スッタニパータとならび現存経典のうち最古の経典といわれている。かなり古いテクストであるが、釈迦の時代か

ソクラテスの「ダイモニア」とは何か——プラトン『ソクラテスの弁明』より

ソクラテスは、心の内にある神的なもの、ダイモニアを信じていた。そして、そのダイモニアがときどき彼に「◯◯をするな」と諫止してきたと述べている。一体この「ダイモニア」とは何であろうか。というのも、これは後にアリストテレスが幸福の概念として述べた「エウダイモニア」、つまりダイモンあるいはダイモニアを声をよく聴くことに通じているからである。 岩波文庫の『ソクラテスの弁明』の翻訳、解説をしている哲学者の久保勉(くぼ まさる, 1883−1972, 東京帝国大学卒の哲学教授)によると

愛知者は死にどのように臨むべきか——プラトン『ソクラテスの弁明』を読む

ソクラテスの「無知の知」は有名な言葉であるが、少し誤解されているところもある。「無知の知」とは、「自分が何も知らないということを知っている」というよりは「自分が知らないことを知っているとは思っていない」ことである。「不知の自覚」という言葉でそれを区別する人もいる。ソクラテスの実際の言葉を引いてみよう。 そして、この不知の自覚のソクラテスの態度は、「死」に対しても向けられている。冒頭の引用がそれである。「愛知者」すなわち知を愛する者としての責務は「不知の自覚」の態度を徹底する

一番大切なことは単に生きることではなく、善く生きること——プラトンの『クリトン』を読む

『クリトン』は、プラトンの初期対話篇の一つであり、『ソクラテスの弁明』の続編。そこに登場する人物名でもある。副題は「行動(実践・義務)について」。ソクラテスがアテナイの裁判で死刑を宣告され、翌日に刑の執行が迫る前夜の話である。クリトンはソクラテスの幼き頃からの親友であり、クリトンはソクラテスにここから逃げるように説得しようとする。しかし、「法の命ずるところに背いて逃げ出すのは正しくないし、するべきではない」と、いつものソクラテスのやり方で逆に説得されてしまうという話である。

なぜ「犬には仏性がない」のか?——末木文美士氏『『碧巌録』を読む』より

『碧巌録』(へきがんろく)は、中国の仏教書であり禅宗の語録。宋の時代(12世紀頃)に成立した。宗教書であると同時に禅文学としての価値が大きく、古来より「宗門第一の書」といわれ、公開の場で提唱されることも多かった。看話禅(師から示された公案を解いて悟りに到ること)の発展は本書に依るところが大きく、本書に倣って『従容録』、『無門関』の公案集が作られた。また、臨済宗の専門道場においては、修行者が自分の悟境を深めるための公案集として用いられている。本書『『碧巌録』を読む』は、仏教学者