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なぜ神はヨブの問いに答えないのか——『ヨブ記』の神義論の面白さ

並木:そう。ヨブは正しい語り方はできなかった。だけど神の正義を追求した限りにおいては、神のいちばん「確かなこと」、神の正しさに固着した。それなんですよね。正しさに固着して、神のミシュパート、公義を問題にしたこと、これが確かなことであると受け止めるほかないでしょう。
奥泉:要するに、神義論は問題にしていいのだと。
並木:そう。人間が神の正しさを問うことは何ら問題ない。
(中略)
並木:正確に言えば、友人たちは神を弁明する神義論なんだ。人間が神を弁護する。他方、ヨブの神義論は神を問う、神の正しさを問う神義論。それは似ているようで徹底的に違う。
(中略)
並木:もし神がヨブの問いに少しでも答えたら、人間に起こったことに神はすべて責任をとらなければいけなくなる。そうしたら人間の主体性はなくなる。
奥泉:なるほど。むしろ神は答えられないですね。
並木:だから、「なぜですか」という問いに神は答えない。形の上では神はヨブの問いを無視している。しかしそのことによって人間の自由を守った。

並木浩一/奥泉光『旧約聖書がわかる本:〈対話〉でひもとくその世界』河出新書, 2022. p.423-429.

『ヨブ記』は、『旧約聖書』に収められている書物。『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。

神を信じ、正しい行いをする義人であったヨブに数々の災難がふりかかる。ヨブは神に「正しい行いをしているはずの私に、このような不条理な災難が起こるのはなぜか」と問いただす。神の正義を問う議論、なぜ全能で善なる神がつくったはずのこの世に悪が存在するのかを問う議論を「神義論」あるいは「弁神論」という。

本書『旧約聖書がわかる本』では、旧約聖書研究者の並木浩一氏と、作家の奥泉光氏との対話形式で、ヨブ記をどう解釈するかに大きく焦点があてられている。ヨブ記は「知恵文学」と呼ばれるが、それは知恵をつけるような文学ではない。知恵を批判する文学である。いわば知恵の自己批判であり、ヨブ記はメタレベルでの知恵文学である、と並木氏はいう。ヨブ記は世界文学の中でも特色があり、文学技法の面でも興味深く、そこで扱われている苦難の主題、ヨブが苦難に陥ってそれを神に問うという問題設定、またそこに孕まれる思想内容や議論のあり方など、どこをとっても水準の高いテクストとなっている。

『ヨブ記』の作者は、真の知恵とは何であるかを問おうとしている。ユニークなのは、苦難の問題をこれだけ徹底して展開する文書は他にないということである。しかも、苦難の責任は神にあるじゃないかと、これだけ堂々と神に対して抗議する、すごく大胆な内容である。苦難が不条理であることを徹底して主張する、という意味で、通常の宗教文学からも逸脱している。現代性のあるテクストとなっている。

神を非難するヨブに対して、最後は神が登場し語りかける。しかし、神はヨブの質問には直接答えない。しかしながら、ヨブは納得する。なぜここでヨブが納得したのかは研究者の間でも解釈が分かれるところである。並木氏の解釈は、(1)神が対話する存在として登場したこと、(2)神はヨブの無知を批判しただけで「隠れた罪」を指摘しなかったこと、(3)神は「悪を断つのは人間の仕事だ」と間接的に語ったこと、などを挙げている。最後のポイントは重要である。もし神が悪の問題に直接介入したらどうなるか。人間に責任がなくなり、全ては神の責任になる。つまり、神が悪に介入すると、人間の自由と主体性が否定されてしまうのである。神は悪を「振り落とす」だけであり、それを滅ぼすのは人間の主体性にまかせている。『ヨブ記』の世界観では、神は自然を創造したが、その自然界を整えるだけであり、神が直接的に被造物を支配するのではない。神は人間の都合の良いようには創造の秩序を定めていない。だからこそ、人間には自由と主体性が残されているのであり、悪を断つ行いも人間の責任なのだ。

ヨブ記の神義論の特徴は、「人間が神の正しさを問う」ことの是非である。そして、神義論を問題にしてよいのだ、ということが示されている。ヨブは正しい語り方はできなかった。しかし、神の正義を追求した限りにおいては、神のいちばん「確かなこと」、神の正しさに固着した。だから最後には許されたと解釈できる。しかし、神はヨブの疑問に直接的には答えなかった。この理由も、人間の「主体性」の問題である。もし神がヨブの問いに直接的に答えてしまったら、人間に起こったことに神はすべて責任をとらなければならなくなる。そうなると人間の「主体性」はなくなってしまうのである。


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