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西田哲学における「生と実在と論理」の一体性

従来の哲学では論理と実在と生とがはなればなれに考えられていて、それがいかなる点において互に結びつくかという事が明かにされていなかった。例えばカントの様に認識と実践とを始めから区別して考えて行けば確かに一通りの問題の解決は得られよう。しかしその二つの世界がいかに関係するかという点が明かになっていない。私はそれを一つにまとめて考えて行きたい。論理が生と実在とに一つである事を明かにするのが私の一つの目的なのである。(中略)

さて論理は総じて実在の自己限定の形である。それ故個物という論理的な規定を深く考えて行けば実在するものに達するのであり、自我が考えられる事にもなるのである。それで自我とは如何なるものなるかを考えるために時間とは如何なるものかという事から考えていこう。

『西田幾多郎講演集』田中裕編, 岩波文庫, 2020. p.35,47(講演「生と実在と論理」より)

西田幾多郎が、1932年(昭和7年)1月から2月にかけて京大講堂において行なった講演「生と実在と論理」からの抜粋である。内容は短いものの、密度の濃い文章になっていて、まさに西田哲学の総決算のようなものとなっている。

まず「従来の哲学では論理と実在と生とがはなればなれに考えられて」いたことを批判し、カント批判から始まっている。しかしこれはカント批判というよりも、西洋の近代哲学をすべて根底から覆す試みとも言えるものである。というのは、西田の「純粋経験」や「絶対矛盾的自己同一」の哲学は、デカルト的な主体-客体関係から脱却し、主客合一(主客未分)の世界を論じるからである。その意味では、フッサールやハイデガーの現象学とも近いものであり、実際に同講演において「かかる考えはPhänomenologie(現象学)においてむしろよりよく看取される」(上掲書, p.45)と西田自らが言及している。

まず「論理は総じて実在の自己限定の形である」ことが示される。西田の中で、論理とはロゴスではない。つまり単なる論理形式や記号ではなく、それは「実在」の姿の一つの形態なのであり、例えば「自我」という存在についても、一種の「論理」が自己限定という形で表現されたものと捉えられる。その意味では、「実在」とは私たちの「生」そのものであり、「実在」と西田が言うとき、それは唯物論的な概念なのではなく、私たちが瞬間瞬間に経験している生そのもの、いわば私たちの「存在の有り様」を指すのである。

そして、そこには「時間」の概念が深く関係することも述べられる。「実在」としての私たちが経験する時間は、直線的に流れる時間ではない。時の出発点は現在であるが、そこには過去も未来も含まれる。その現在を、西田は「永遠の今」あるいは「絶対現在」と呼ぶ。「すべての時は絶対の無において消えて絶対の無において生まれる」のであり、「その無数の時をつつむものが即ち永遠の今なのである」(同書, p.49)と西田は言う。ここに西田の言う「論理」も現成している。すなわち「時の形式が論理であり、論理は時において見られる」のである。

また「時が実在の形式」であるということも述べられる。その形式とは「時は無の自己限定において成立する」というものである。ここでの時間は物理学的な時間ではない。私たちの「実在」に流れる時間のことである。ここでは、時間は私たちの「自覚」において限定される。この自覚的限定とは、対象物をもつような限定ではなく、「無」の限定である。私たちの実在そのものが、現在という時において「無」の限定を受けている。したがって、時も「無」の自己限定によって生まれるのである。無であるからこそ、永遠を含む。この「絶対現在」には未来と過去が同時に含まれる。しかし、これは通常の論理では矛盾を来している。しかしながら、西田哲学において「実在」の本質とは、この相矛盾するものが同時に含まれる場所なのであり、弁証法的に成立するものなのである。

かくして、西田は「論理も実在も生命も、実は一つであってバラバラに分かれたものではない」ことを主張する。哲学者の池田義昭氏は「こうした考え方というのは、実は日本の伝統的な自然観とも親和性があり、古来、日本人の思考の特色を形成している」という(『福岡伸一、西田哲学を読む』p.355)。例えば「もののあわれ」の感覚もそうかもしれない。滅びゆく自然に美を感じ取る私たちの感性は、滅びと美という一見矛盾するものに関連を見いだし、瞬間の中に永遠を感じ取るものだった。

また、池田氏は、こうした西田哲学の特徴に「統合の学」を進めるヒントを読み取ろうとする。理論と実践、文系と理系といった学問や知の細分化が進んでしまった現在、知の統合というのはとてつもなく難しいように見える。しかし、西田哲学に基づくならば、そもそも、理論と実践(論理と実在)は分かれておらず、すべての知がすべての学問の中にも存在しているということを思い起こすべきであると池田氏は述べる。哲学と生命科学と私たちの生はすべてつながっているのである。


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