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孔子が説いた〈礼〉の本質——フィンガレット『孔子:聖としての世俗者』を読む

社会とは人の集まりである。そこでは、人は互いを人として扱う(仁)。より具体的にいえば、〈礼〉の責務と権利に則り、相互の人間関係に必要な愛(愛)や忠誠(忠)、尊重(恕)から互いを遇するのである。人間関係の諸形態は、人間に強制されたものでもなければ、物理的に不可避のものでもなく、また本能でも反射運動でもない。それらは、学習され自発的に参加される儀礼なのである。(中略)「自己を律して常に〈礼〉へ戻る。(己れを克(せ)めて礼に復る)」(顔淵1)ことは、もはや動物的な飢餓感や不道徳な感情に身を委ねることではなく、人間精神が開花する場である自由を成就させることである。それはウェイリーの訳が示唆するような「従属」を問題にしているのではなく、人間精神の勝利こそが説かれている。

ハーバート・フィンガレット『孔子:聖としての世俗者』平凡社, 1994年. p.154.(太字強調は筆者による)

アメリカの哲学者フィンガレットによる『孔子:聖としての世俗者(Confucius: The Secular as Sacred)』(原著は1972年刊)からの引用。我々にとっては馴染みの深い孔子の教えを、欧米の哲学者がどう解釈したかが分かる本である。しかしながら、現代哲学の知見にも照らしながら新しい解釈がなされており、非常に興味深い内容となっている。

ハーバート・フィンガレット(Herbert Fingarette、1921 - 2018)は、アメリカ合衆国の哲学者。カリフォルニア大学サンタバーバラ校名誉教授。中国哲学、心の哲学、分析哲学、精神分析など研究した。1972年の著書『孔子:聖としての世俗者』は、学術誌(Philosophy East and West)において「このテーマに関して、長い間出版された最も重要な哲学書のひとつ」と評された。その他にも、彼の研究は「自己欺瞞」に関する哲学・心理学的議論や、「依存症」に関する理論などにも及んでおり、社会に対して大きな影響を与えている。

本書『孔子』においては、孔子の教えの中心である〈礼〉や〈仁〉が欧米の宗教観や哲学から照らしてどのような位置づけになるのかを解説しつつ、フィンガレット自身が原典、つまり孔子の文章そのものにあたり、再解釈しているところに大きな価値がある。彼は孔子の儀礼に関する考え方を、J・L・オースティンの言語行為論(Speech Act Theory)に合致することを示そうとしている。オースティンの考え方は、言語を発話(utterrance)の行為として捉え、単に事物の描写・言明とは考えない。行為として考えるかぎり、発言は真偽で捉えられるより適切・不適切なものとして捉えられる。そこでは発言を成立させる状況が深く関わってくるため、適切な行為はあらかじめ決まっている慣習、つまり〈礼〉に則って為される。

しかしながら、フィンガレットは孔子は単に個人よりも社会を重視するべきと説いたのではないという。むしろ、人間を動物から区別するもの、人間を〈聖なるもの〉とならしめるものこそが〈礼〉なのであり、それは神の概念から来るものでもなく、動物的本能から来るものでもない。「学習され自発的に参加される儀礼」なのだという。そして、人が〈礼〉に戻るということは「人間精神が開花する場である自由を成就させること」なのだ、とまで言い切る。非常に斬新な解釈である。

私たちは儀礼、特に挨拶や立ち居振る舞いといったものを、世間から強制されるもの、私たちを不自由にするものとして捉える傾向にある。それは「良き社会」を成立させるために仕方のないものと考えがちである。しかしながら、孔子を再解釈したフィンガレットによれば、それは孔子の教えの本質ではない。むしろ、〈礼〉とは「自由」の成就なのであり、人間精神の開花の場なのであり、社会の規範への従属ではなく「人間精神の勝利」こそが孔子が説きたかったものだ、というのである。

ちなみに本書の副題である「聖としての世俗者」とは、孔子が世俗者でありながら、つまり神という宗教的なものを前提とせずに、人間の本性に「聖」なるもの(人間を動物から区別するもの)をどう見出すかを追求したことを表している。これは非常に現代的なテーマではないだろうか。私たちはどのように生きるべきかという指針を考えるときに、もはや宗教や神の概念に頼ることができない時代に生きている。このとき、孔子のフィンガレット解釈は新たな光を与えてくれるように思えるのである。



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