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西田幾多郎の「純粋経験」とベルクソンの「直観」

ベルクソンの哲学は西田により、自分の思想と共鳴するものとして受けとめられた。西田がとくに「同感」をいだいたのは、これらのエッセーのなかで言われているように、ベルクソンの「直観」の概念に対してであった。
ベルクソンの言う「直観」とは、事柄を外から捉えるのではなく、事柄のなかに入り込んで、内側からそれを捉えようとする態度ないし方法を意味している。逆に、事柄を外から捉えようとすることをベルクソンは「分析」という言葉で呼んでいる。(中略)
ここではベルクソンの「直観」を説明するために、「物自身になって見る」、あるいは「之と成って内より之を知る」ということが言われているが、それは同時に「純粋経験」を説明した言葉としても受け取ることができるであろう。(中略)
そして、この事柄は外からではなく、事柄自身になってはじめて把握されるという考えは、初期の思想だけではなく、西田の思想全体を貫くものであった。後期の著作のなかでくり返し用いられる「物となって見、物となって考える」という表現がそのことをよく示している。

藤田正勝『西田幾多郎『善の研究』を読む』ちくま新書, 2022. p.224-226.

前回に続き、西田幾多郎をとりあげる。本書『西田幾多郎『善の研究』を読む』は、西田哲学研究の第一人者である藤田正勝氏(京都大学名誉教授, 哲学博士)が西田幾多郎の思想の解説を、主著『善の研究』にそって著したものである。「実在」「善」「宗教」「純粋経験」という『善の研究』の目次にそって解説されている。

まず、なぜこの本が『善の研究』というタイトルになったかという秘密が明かされている。というのも、本書は倫理(善と悪)に関する哲学書というよりは、西田哲学の根本である「純粋経験」や、それに伴う実在論の話が中心になっているからである。実は、西田自身は『純粋経験と実在』というタイトルを考えていたという。しかし出版社側の意向で、「純粋経験」という難解な用語を含むものでは売れないだろうと考えられ、『善の研究』に落ち着いた。西田も後年「私の『善の研究』というのは当時本屋の求もあり他人のつけたものだがどうも面白くない」と不満足の意を表していた。

藤田氏の本書では、「善」の解説の部分では、ルソーの「良心」論、カントの倫理学説(実践理性と定言命法)、アリストテレスの幸福論(エウダイモニア)など西洋の哲学と西田の「善」に関する考えが比較される。また、「宗教」の解説の部分では、西田哲学とキリスト教との関連、ドイツ神秘主義との関連、禅との関連、そして親鸞の「他力」信仰との関連などが論じられる。実に幅広い視点から西田哲学の検討と解説がなされているのが特徴である。

しかしながら、西田哲学の真髄とでも呼ぶべきものは「純粋経験」という概念であろう。この解説が本書での最後を飾っている。「純粋経験」とは、「判断以前」の経験であり、言葉では語り得ない経験であり、「主語も客語もない」経験であるということが述べられる。そして、こうした西田の「純粋経験」の考えは、フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(Henri Bergson, 1859 - 1941)の「直観」と類似性を持つものである。実際に西田はベルクソンの著作を読んでおり、「ベルグソンの哲学的方法論」「ベルグソンの純粋持続」というエッセーも書いている。ベルクソンの「直観」の哲学は、西田によって自分の思想と共鳴するものとして受けとめられた。

ベルクソンは、事柄を外からではなく事柄の「内側」から捉えようとする態度ないし方法を「直観」と呼び、事柄を外から捉えようとすることを「分析」という言葉で呼んだ。これは西田の「純粋経験」と相通じるものを有している。ただ、西田はその「純粋経験」を思想の核として、実在とは何か、善とは何か、宗教とは何かという哲学上の大きなテーマに、自ら考え抜いた独自の思想によって真正面から取り組んだ。まさしくそこに、彼の業績の偉大さがあると言えるだろう。それは、『善の研究』が100年以上日本人によって読み続けられ、さらには英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、中国語、韓国語など多くの言語に翻訳され、世界中で読まれているという事実からも伺える。




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