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「能力」の起源とは——能力信仰と優生学の関係

「能力」の起源、それは優生学にありました。人間の個人差を測るところから出発し、優劣が生まれる原因に「遺伝」と「進化」というコンセプトを当てはめて研究する中から、次第に「能力」という概念が生まれていったのです。(中略)
あらためて「能力(ability)」とはなにかを考えてみましょう。ズバリ結論を言うと、「能力」とは「知能(intelligence)」を測る「知能テスト」が一般に広まったことによって生まれた統計的な概念です。そして、ただの統計上での数字でしかない「能力」を、まるでそれが存在するかのように考えるようになった「信仰」の一種なのです。

孫泰蔵『冒険の書:AI時代のアンラーニング』日経BP, 2023. p.160-161.

連続企業家、孫泰蔵氏の著書『冒険の書』は、現代の教育と社会のあり方を根底から問い、常識を覆すような一冊である。近代社会の発展と資本主義社会によって、人が「能力」で測られるようになり、さらには、能力を通貨のように商品化するようになったことが、現代の不幸を招いているとする。その歴史的・哲学的な起源に関して、コメニウス、ホッブズ、ルソー、フーコー、イリイチなど哲学者・思想家たちの思想的起源にまで遡って論じているのは、他の類書に例をみないほどである。また、難解な思想を分かりやすく、かつ冒険する主人公の目線から描いていくというのは、起業家ならでは、流石である。

私が最も感じ入ったのは、「能力(ability)」の起源に関する記述の部分である。現在は、能力主義社会であり、能力差別社会でもある。メリトクラシー社会における能力差別は、最後に残された差別とも言われている(関連記事「15対50問題―メリトクラシー(能力主義)が分断する社会」も参照されたい)。その「能力」信仰はどこから来たのか。それが「優生学」だというわけである。

19世紀の統計学者フランシス・ゴルトンは著書『遺伝と天才』(1869年)によって、「能力」は遺伝することを主張した。そして彼は「優生学(eugenics)」というものを提唱するようになる。それは、人類の遺伝的素質の低下を防ぎ、優秀または健全な素質を高めることを目的とする学問である。この「優生学」思想は、今では非常に危険なものとされており、ナチス・ドイツが優生学の思想に基づいて障害者虐殺計画を実施したり、日本においても障害者の強制不妊手術が行われたりしていた。この非常に危険であり、現在では倫理的に否定されている思想が、「能力」という考え方の起源というわけである。

「能力」とは虚構であり、幻想であると著者は断言する。ゴルトンの後にも、能力は知能テストで測定できるとされ、統計学的に位置づけられるようになり、さらには資本主義社会の中で、あたかも「通貨」のように「能力さえあればなんでもできる」という社会になっていった。「能力持ち」であれば世の中をうまくわたっていけると信じられるようになった。この「能力信仰」によって、学校は子どもに「能力」を身につけさせる場所となり、勉強するという手段が目的化するようになっていったという。現在は大人にとっても、能力による「成果」を求められる時代である。そしてこれは、「人間の機械化」とも関連している。人間があたかも機械のように「能力」という性能で評価され、生産性を高めるように改良していくことを求められる。「リスキリング(職業能力の再開発・再教育)」も、その最たる例である。

著者は、この能力信仰社会への処方箋として、さまざまな提案をしているが、その一つが「評価(evaluation)」をやめて「アプリシエーション(appreciation)」をしよう、というものである。現代はすべてが評価される評価主義社会でもある。何をやるにしても、コストと成果の評価が求められる。人間も、社会の中で「人材」という資源として扱われ、その人材がどのくらいの業績をあげたのかという評価がなされる。教育においても、常に「評価」がつきまとう。むしろ「評価」できるようなものが教育の目標になっていくというアウトカム基盤型教育が現在の主流である。したがって、「評価」が難しいものについては教育の目標になりにくい。しかし、そもそも「能力」は評価できるのか。「能力」自体が虚構なのだとしたら、評価とは一体何をやっているのか。

著者は、評価をやめて「アプリシエーション」を行うことのほうが本質的だという。英語の「appreciate」には「鑑賞する」と「感謝する」という二つの意味がある。「アプリシエーション」とは、対象となるものを深く理解し、その良さや魅力をよくわかり、そして尊敬の念や感謝の気持ちを持つことである。つまり、簡単に言うと、良さを理解し褒めることである。「愛でる」と言ってもいいかもしれない。これからの教育においては、能力というものを一旦脇において、すべての人には、その人らしい素晴らしいものがあることを認めて、それを理解しアプリシエートするような教育が求められるのではないか。『冒険の書』は、そんな願いがこめられた一冊である。

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