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バフチンのポリフォニーと「間テクスト性」——クリステヴァの『記号の解体学—セメイオチケ』を読む

対話が想定している二つの極の間に形成される軌跡は、因果関係、合目的性などの問題をわれわれの哲学領野から徹底的に取り除き、小説よりもずっと広大な思考空間にとっての、対話的原理の有意性を暗示している。対話関係は、おそらく二項対立(ビナリズム)以上に、現代の知的構造の土台となることであろう。小説と、対立するものを同時に含む文学的構造の優位、青年の(カーニヴァル的)共同体への傾斜、量子交換、中国哲学の相関的シンボル表現への関心など、現代思想を特徴づける要素をとりあえずいくつか引用するにとどめるが、それらは、ここに述べた仮説の裏付けになっている。

ジュリア・クリステヴァ『記号の解体学―セメイオチケ1』せりか書房, 1983. p.102.(太字強調は筆者による)

ジュリア・クリステヴァ(1941 - )は、ブルガリア出身のフランスの文学理論家で、著述家、哲学者、精神分析家。ユダヤ系の家庭に生まれた。1973年からパリ第7大学の教授を務め、現在は名誉教授。彼女の言語学や言語、間テクスト性に関する著作は、ポスト構造主義的な議論をその特徴としている。彼女は、取り分けフロイトやラカンの精神分析、ロシア・フォルマリズム(彼女はその中で仲介者的な役割を演じていて、それによりミハイル・バフチンのフランスの知的シーンへの紹介者となった)やヘーゲル主義から影響を受けている。(Wikipediaより)

引用したのはクリステヴァの処女論文集『セメイオチケ』のなかの「言葉、対話、小説」という1966年の論文の最後の段落である。クリステヴァの大きな功績の一つにミハイル・バフチンの「対話主義」あるいは「対話原理」の再発見と「間テクスト性(相互テクスト性)=intertextuality」の概念の提唱にある。

クリステヴァの「間テクスト性」の意味するところは、ソシュールの構造主義的記号論(記号がテクスト構造の中でどんな意味をもたらすかという研究)とバフチンの対話主義(各テクスト(特に小説)や語における、多義性の検討)とを統合する試みである。クリステヴァによれば、もしも作家から読者へ直接意味が伝わるのではなく、代わりに他のテクストによって伝えられる「コード」が介在したりフィルターがかかったりするのであれば、間テクスト性の概念は間主体性の概念に取って代わるという。例えば、我々がジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を読むとき、我々は近代人の文学的実験として、或いは壮大な伝統への反応として、或いは他の談話の一部として、或いはこれら全ての談話の一部分として、これらを同時に解読する。(Wikipedia「間テクスト性」の説明より)

バフチンの意味するポリフォニー小説(ドストエフスキー、ラブレー)の特徴として「対話」および「対立するものの併存(ambivalence=両面価値性)」があり、どのようなテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成されているとクリステヴァは述べる。

この「対立するものの併存」、つまり対立するものを同時に含む原理が「対話原理」であり、これは科学や論理学のような言語構造とは異なるとクリスヴァは述べる。「その特徴は、他者の言葉が作者の言葉に積極的な(すなわち変更を及ぼす)影響を与えているということにある。(中略)対立しているものを同時に含む言葉の積極的なタイプにおいて、他者の言葉は語り手の言葉によって表されている」(同書, p.75)という。

またこの対話原理は「カーニヴァル的構造」を含むものである。ここでいうカーニヴァルという用語はバフチンにならったもので、カーニヴァルとは「民衆的」であり、「西欧文化の歴史全体にわたって、公式の西欧文化によって、往々にして虫され、また迫害されてきた」ものだという。つまり、「カーニヴァルとは、もともと対話的なものである(隔たり、関係、類似、非排除的対立から成り立っている)」

「間テクスト性」の考え方は難しいように聞こえるが、バフチンの対話原理あるいはポリフォニーという考え方を、クリステヴァが記号論や言語構造にそって再解釈したときに出てきた概念だということが分かる。その対話原理の構造は、論理的構造や明示的な言語構造(直接話法、間接話法)を超えたものであり、ポリフォニー小説の特徴でありつつ、私たちの存在のあり方にも密接に関係しているものである。つまりは「対立するものの併存(アンビヴァレンス)」を内包した我々の物語もそうなのであり、「対話関係は、おそらく二項対立(ビナリズム)以上に、現代の知的構造の土台となることであろう」とクリステヴァが1966年に予言した言葉は今もって新鮮味を保っている。


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