見出し画像

小説における異なる言語の対話的共存——バフチンの『小説の言葉』を読む

しかし実際には、我々の対比を方法論的に正当化するこの共通の平面は存在する。というのは、矛盾しあうすべての言語は、その個別化の基礎にいかなる原理が存在しようとも、世界に対する固有の視点であり、言葉による世界の意味づけの形式であり、独自の対象的意味および価値評価の視野であるからである。それらの言語はすべて、言語そのものとして対比され、相互に補いあい、相互に矛盾しあい、また相互に対話的に相関しうる。それらは、言語そのものとして、人々の意識の中、それもまず第一に芸術家である小説家の創作意識の中で出会い、共存する。それらは言語そのものとして、社会的な言語の多様性の中で現実に生き、闘争し、生成する。それゆえに、それらすべての言語は、単一の小説の平面に収まりうるのである。

M. M. バフチン『小説の言葉:付「小説の言葉の前史より」』平凡社ライブラリー, 1996. p.64.(太字強調は筆者による)

ミハイル・ミハイロビッチ・バフチン(Mikhail Mikhailovich Bakhtin,1895 - 1975)は、ロシアの哲学者、思想家、文芸批評家、記号論者。対話理論・ポリフォニー論の創始者。オリョールに生まれ、ノヴォロシースク大学から転学、ペテルブルク(ペトログラード)大学を1918年に卒業。 ロシア革命後の混乱の中、匿名の学者として活動。スターリン時代に逮捕され流刑に処された後、モルドヴァの大学教師として半生を過ごした。バフチンの著作は多岐にわたるが、文芸批評、歴史、哲学、社会学、人類学、心理学といったバフチン自身の専門分野はもとより、マルクス主義、記号学、構造主義といった必ずしも専門分野とは関係ない学者に対しても大きな影響を与えた。

本書『小説の言葉』は1935年に書かれている。最初に書かれた中篇とも称すべき論文である。後に書かれる『ドストエーフスキイの創作の諸問題』で展開されたポリフォニー論や対話主義の考え方の萌芽が見て取れる。

バフチンは詩的言語と違い、小説における言語は「対話的」なものであるという。小説の中では異なる言語が共存し、対話的に相互作用しあっている。そもそも、現実の言語というものはけっして単一のものではなく、常に社会階層、職業、ジャンルなどの違いによって無限に分化している。それらが共存し、同じ平面に収められているのが「小説」という文体である。小説の中での言葉の対話的関係というのは、同一の言語による異なる発話ではなく、むしろ二つの(複数の)異なる言語である。そうした、独我論(一つの言語によるモノローグ)を崩壊させるような複数の言語の共存の意識こそが、小説を支える言語意識なのであり、そこに小説言語と詩的言語の根本的な相違があるとバフチンは考えた。

このバフチンの「異なる言語の対話的共存」という考え方は、哲学者ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の考え方にも近い。ウィトゲンシュタインは、言葉の意味を、外延(対象)や内包(共通性質)ではなく、特定のゲームにおける機能として理解すべきと主張した。私たちが言語的活動をしているとき、一種の「ゲーム」を遊んでいるようなものだという。そのとき、言葉には共通の意味や定義がなされていないことが多い。子どもが遊んでいるところを見れば分かりやすい。子どもたちは最初は「だるまさんがころんだ」をしていたかと思えば、いつのまにか「鬼ごっこ」をしているということがある。特に最初から決められたルールのもとで遊んでいなくても自然に遊んでいるのである。そういった互いに異なるルールを想定していても、「遊び」は成り立つと考えるのが「言語ゲーム」の考え方である。

バフチンが「言語」という言葉で意味しているのは、日本語、英語、ロシア語という言語ではなく、社会階層や職業などのジャンルごとに異なる言葉の「文法」のようなものである。私たちは日常の対話の中で、お互いに異なる「言語」でもってやりとりしている。そのとき微妙に異なるルールや言葉の定義が混じり合っており、実は異なる言語同士でやりとりしているようなものだ。それが「対話的共存」の意味である。そのような日常の対話のあり方が、小説の中にも反映されているとバフチンは考えたのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?