見出し画像

知恵を求める心の正体とは——兼好法師『徒然草』を読む

第三八段
名誉欲と利欲とに酷使されて、心静かに過ごす暇もなく、一生を苦しんで終わるのは愚かなことである。(中略)
但し、それでもなお知恵を求め、賢人ならんことを願う人のために一言申すならば、知恵が生じたから虚偽が生まれたのである。才能は人間の煩悩が肥大したものである。人から伝え聞き、人から学んで知ったことは、真実の知恵ではない。それではどのようなものを知恵といえばよいのか。可・不可というのも相対的なもので、別物ではない。どのようなものを善というのか。真実道に達した人は、知恵もなく、徳行もなく、功績もなく、名声もない。だから、そのような人を誰か知り、誰が伝えようか。これは、そのような人が徳の高さを隠し愚かさを演じて韜晦(とうかい)しているからではない。そういう人はもともと賢愚や損得などの二項対立の次元にはいないからである。
迷いの心から名誉欲や利欲の要点を追求してみるとこのようであった。あらゆることは正体がなく空虚なものである。論ずるに足りないし、願うまでもない。

兼好法師『新板 徒然草 現代語訳付き』小川剛生=訳注. 角川ソフィア文庫, 2015. p.294-296.

『徒然草』は、兼好法師(吉田兼好)が書いたとされる随筆。清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』とならび日本三大随筆の一つと評価されている。成立については1330年頃と言う説が有力である。執筆後約100年間は注目されなかったが、室町中期に僧・正徹が注目し、自ら書写した写本にこの作品を兼好法師のものとし、兼好の略歴も合わせて記している。応仁の乱の時代には「無常観の文学」という観点から共感が寄せられた。江戸時代になると版本が刊行され、身近な古典として愛読されたため、江戸期の文化に多大な影響を及ぼした。小林秀雄は「徒然草」という短いエッセイで、兼好の「物が見え過ぎる眼」を指摘し、本書を「空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件」と評価している。

第三八段は「名誉欲」についてである。人が名誉を求める心、あるいは知識・知恵によって人の評判を得たいと望む心のことを論じている。兼行はこれを「愚かなこと」といって一蹴する。「賢人になりたい」というのも同じことである。なぜなら、人の評判になっても、評判をする人、褒める人というのはすぐにこの世から退場していくからである。また名誉はすぐに中傷に変わる。ましてや、死後の名声は少しも役に立たない(本人は死んでいるのだから)。

それでも、知恵を得たい、賢人になりたいと願う人のために兼行はアドバイスをする。知恵から虚偽が生まれたのであると。才能とは人間の煩悩が肥大化したものであると。人から教えてもらった知識・知恵というのは、大したものではない。それは真実の知恵ではない。それでは、真実の知恵(まことの智)とはいったいどのようなものであろうか。それは「真理を知ること(真実道に達すること)」であり、いわばそれは仏の道である。まことの人(真実道にいる人)には、知恵も、賢さも、名声もない。優劣も、善悪も、賢愚もないのである。そうした二項対立の次元にはいなくなること。これが真実の知恵を知ることである。

そうしてみると、知識や知恵を得たいと思って『徒然草』をひもとくと、それは矛盾することになる。自分の知識を願う心が、名誉欲、つまりは煩悩に根ざしていないかをチェックする必要がある。人より抜きん出たいとか、人の評判になりたいと願う心ではなく、真実道に達したいと願う心で、そっと『徒然草』を開いてみて、ときに兼好の言葉に耳を傾けてみるのが良いだろう。

上記現代語訳の原文も記しておく。

第三八段
名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。(中略)
但し、しひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いなかるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し愚を守るにはあらず。もとより賢愚・得失の境にをらざればなり。
迷ひの心をもちて名利の要を求むるにかくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。

(上掲書, p.47-48.)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?