知恵を求める心の正体とは——兼好法師『徒然草』を読む
『徒然草』は、兼好法師(吉田兼好)が書いたとされる随筆。清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』とならび日本三大随筆の一つと評価されている。成立については1330年頃と言う説が有力である。執筆後約100年間は注目されなかったが、室町中期に僧・正徹が注目し、自ら書写した写本にこの作品を兼好法師のものとし、兼好の略歴も合わせて記している。応仁の乱の時代には「無常観の文学」という観点から共感が寄せられた。江戸時代になると版本が刊行され、身近な古典として愛読されたため、江戸期の文化に多大な影響を及ぼした。小林秀雄は「徒然草」という短いエッセイで、兼好の「物が見え過ぎる眼」を指摘し、本書を「空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件」と評価している。
第三八段は「名誉欲」についてである。人が名誉を求める心、あるいは知識・知恵によって人の評判を得たいと望む心のことを論じている。兼行はこれを「愚かなこと」といって一蹴する。「賢人になりたい」というのも同じことである。なぜなら、人の評判になっても、評判をする人、褒める人というのはすぐにこの世から退場していくからである。また名誉はすぐに中傷に変わる。ましてや、死後の名声は少しも役に立たない(本人は死んでいるのだから)。
それでも、知恵を得たい、賢人になりたいと願う人のために兼行はアドバイスをする。知恵から虚偽が生まれたのであると。才能とは人間の煩悩が肥大化したものであると。人から教えてもらった知識・知恵というのは、大したものではない。それは真実の知恵ではない。それでは、真実の知恵(まことの智)とはいったいどのようなものであろうか。それは「真理を知ること(真実道に達すること)」であり、いわばそれは仏の道である。まことの人(真実道にいる人)には、知恵も、賢さも、名声もない。優劣も、善悪も、賢愚もないのである。そうした二項対立の次元にはいなくなること。これが真実の知恵を知ることである。
そうしてみると、知識や知恵を得たいと思って『徒然草』をひもとくと、それは矛盾することになる。自分の知識を願う心が、名誉欲、つまりは煩悩に根ざしていないかをチェックする必要がある。人より抜きん出たいとか、人の評判になりたいと願う心ではなく、真実道に達したいと願う心で、そっと『徒然草』を開いてみて、ときに兼好の言葉に耳を傾けてみるのが良いだろう。
上記現代語訳の原文も記しておく。
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