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日本人の根本主義とは——山本七平の『「空気」の研究』を読む

それは一言でいえば空気を醸成し、水を差し、水という雨が体系的思想を全部腐食して解体し、それぞれを自らの通常性の中に解体吸収しつつ、その表面に出ている「言葉」は相矛盾するものを平然と併存させておける状態なのである。これが恐らくわれわれのあらゆる体制の背後にある神政制だが、この神政制の基礎はおそらく汎神論(パンテイズム)であり、従ってそれは汎神論的神政制と呼ばれるべきものである。
そしてわれわれは、そういう形の併存において矛盾を感じないわけである。これがわれわれの根本主義(ファンダメンタリズム)であろう。ではその体制は一体どんなもので、どのような欠陥をもち、それが将来どのように作用し、どうすればその欠陥を克服しうるのか、これがわれわれのもつ問題である。

山本七平『「空気」の研究』文藝春秋, 新装版, 2018. p.229.

1977年に出版された山本七平の『「空気」の研究』。今回は2018年の文藝春秋から出た新装版(文庫本)より引用。この著書には「「空気」の研究」「「水=通常性」の研究」「日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について」の三篇の論文が収められている。最初の二篇において、日本人に臨在する「空気」とはどのようなものか、なぜそれが発生してしまうのか、それを修正するはずの「水(通常性)」が新たな「空気」になってしまうことなどが論じられている。

山本は、日本人の「空気」の背後に「臨在感」というものがあると言う。「臨在感」とは、山本が用いる独特な用語であるが、物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けているという状態を指す。私たちが「空気」に支配されているとき、「空気」の影響で何かをせざるを得ないという状況に追い込まれてしまうとき、その背後に「臨在感」が存在するというわけである。はっきり言えばそこには何もない、いわば妄想のようなものであるにもかかわらず。日米開戦の決定、戦艦大和の特攻、もっと古くは西郷隆盛の西南戦争なども、合理的に考えれば失敗することが明らかであるにもかかわらず、「空気」からそうせざるを得ない状況に追い込まれているように思える。

そして山本は、そうした「空気」や「臨在感」の背後にある日本人の「根本主義(ファンダメンタリズム)」とは何かということを考える。これはアメリカにおいては「聖書絶対主義」のキリスト教徒が進化論を否定するような考え方である(現在の私たちにとってはファンダメンタリズムというと「根本主義」より「原理主義」という言葉のほうが馴染み深いかもしれない)。しかし日本人には、一神教の人びとにとっての聖書やクルアーンようなものがあるわけではない。成文化された何かがあるわけではない。それでも、私たち日本人はいつも「空気」に支配されているように見える。この背後にあるファンダメンタリズムとは何か。

山本は、日本人の「空気」や「臨在感」の背後に、一種のアニミズム的なものをみる。それは一種の汎神論(パンテイズム)であると論じているのである。どういうことか。日本人は戦前は天皇を現人神とみていた。しかし、これは合理的に考えるといろいろと矛盾をはらんでいる。現人神は進化論とは相容れない。なぜなら、現人神である天皇の祖先は猿であるということになるからである。しかし、日本人はそうした矛盾している部分を「見ない」ようにする。いわば、合理的な矛盾を無視し、臨在感からくる「空気」のほうを重視する。これは一種の汎神論であって、Aという神とBという神とCという神を同時に拝むことができるという心的態度である。いわば「矛盾を感じずに臨在感を重視する」という根本主義を私たちは持っているというわけである。

このことを、山本は「人は、論理的説得では心的態度を変えない。特に画像、映像、言葉の映像化による対象の臨在感的把握が絶対化される日本においては、それは不可能であると言ってよい」と表現している。これは現在でも私たちに当てはまることではないだろうか。例えば、コロナ禍におけるさまざまな言説や行動、ウィルスワクチンの効果や副反応に関する態度などにおいて、人びとは「論理的説得」では信念を変えることは稀であったし、むしろ「言葉の映像化」のような対象の臨在感的把握を重視する傾向にあったといえないだろうか。山本が喝破した日本人のメンタリズムとしての「空気」論は、いまだに私たちを拘束し、支配し続けているのかもしれない。

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