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父のこと、その後

父が入院している病院から連絡があった。

主治医の先生からの病状と治療経過に関する詳しい説明だ。

ふだん私が医師としてやっていることである。それを逆の立場から経験するのは、ほぼ初めてと言ってもよかった。

夜遅い時間にもかかわらず、病院からかけていると思われる先生の丁寧な声が電話越しに伝わってくる。

「お父様がですね、心臓の左前下行枝のところ近位部で閉塞してましたので...」

こちらも医師であると母から伝わっているようで、専門用語を使った詳しい説明となる。その方がもちろん話は早い。心臓の冠動脈の枝にはそれぞれ番号が付いている。何番が何%狭窄あるいは閉塞しているという客観的情報をもらうことで、医師である自分はある程度安心する。

母からきたLINEの言葉による説明は何となく要領を得ず、不正確な情報もあった(それも止むを得まい)。専門家同士の情報共有は、専門用語とデータを使った情報伝達が正確であり早いのである。

しかし今回最も感じたことは、主治医からの直接の電話連絡による病状説明がこんなにも患者の家族に安心感を与え、そして主治医に対する信頼感を感じさせるものなのか、という驚きであった。

故郷に近い方言なまりの、その主治医の声や話ぶりからは、その人がとても誠実な医師であり、自分の職務に対していかに責任感を持って取り組んでいるのか、という人間性が伝わってきた。そのことに、涙が出そうになった。

今回、私が患者家族として主治医から受け取ったのは、一つには医学的および言語的情報であった。しかしながら、もう一つは言語外の、その人の〈存在〉を通した呼びかけであったに違いない(エマニュエル・レヴィナスが〈顔〉による呼びかけと表現したもの)。

自己と他者は、言語的情報の共有ではなく、言葉ではない発話を通した呼びかけによってつながる。人は何かを誠実に話しているとき、言語的情報を伝えようとしているのではなく、自分の〈存在〉を通して何かを他者に呼びかけているのではないだろうか。最近、そう思うのである。

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