見出し画像

西田幾多郎とオスカー・ワイルド——『善の研究』より

余の考うる所にては元来絶対的に悪というべきものはない。物はすべてその本来においては善である。実在はすなわち善であるといわねばならぬ。……されば、物そのものにおいて本来悪なるものがあるのではない、悪は実在体系の矛盾衝突より起こるのである。……
罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない。不満なく苦悩なき者は深き精神的趣味を解することはできぬ。罪悪、不満、苦悩は我々人間が精神的向上の要件である。……罪はにくむべきものである、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しきものもない。余はここにおいてオスカル・ワイルドの『獄中記』De Profundisの中の一節を想い起こさざるをえない。キリストは罪人をば人間の完成に最も近き者として愛した。……もちろん、罪人は悔い改めねばならぬ。しかし、これ彼が為した所のものを完成するのである。

西田幾多郎『善の研究』小坂国継全注釈, 講談社学術文庫, 2006. p.442-444.

西田幾多郎の主著『善の研究』より、第四編「宗教」:第四章「神と世界」より。本書は「純粋経験」「実在」「善」「宗教」の四編から成るが、その最後の「宗教」のほぼ末尾の部分である。ここでは、西田が「性善説」に立っていたということがはっきりと分かる。ここでは「悪は存在するか」というテーマについて西田が論じ、「本来的な悪はない」と断言している。「宗教」のカテゴリーで論じられているが、「善/悪とは何か」という倫理問題と深く関連する部分である。

西田いわく、「物はすべてその本来においては善である」という。なぜなら、西田は道徳観念も「実在」の立場から論じており、実在体系の立場からすると、悪とは「実在体系の矛盾衝突」から起きているにすぎないという。また時代によって何が悪とされるという道徳観かも変遷するため、絶対的な悪はない、むしろそれは一種の「仮象」と言えるわけである。

また「罪悪」の意識、つまり「罪」の意識というものは一種の虚構であるけれども、私たちの人生においてそれは不可欠のものであるとも西田は述べる。罪悪の観念は、私たちをむしろ「完成させる」と西田は言う。なぜなら、人間は罪を意識し、それを悔い改めることで精神的に向上し、本来的なあり方へと変革することができるからである。

それに関連して、西田はオスカー・ワイルドの『獄中記』の中の記述を挙げている。獄中記の一節は次の通りである。

勿論、罪人は悔いあらためなければならぬ。しかしそれは何故にであるか。ただ、改めなければ、自分が為したことを了解することが出来ぬからだ。悔悛の瞬間は認知の瞬間である。そればかりではない。人がその過去を変革する手段でもある。ギリシア人はそのことを不可能と考えた。その格言のたとえのなかに、しばしば『神すらも過去を革め得ず。』といった。キリストは、もっとも低俗の罪人もこれを為し得る、いや彼が為しうることはこればかりだ、と説く。

オスカー・ワイルド『獄中記(De Profundis)』阿部知二訳, 岩波文庫, 1911. p.75-76.

これはワイルドが聖書の中の「放蕩息子」の喩え話に関連させて述べている部分である。西田はワイルドの『獄中記』に大きな感銘を受けていたようだ。そして『善の研究』でワイルドを引用して述べているところは、西田があくまで人間の本性は「善」であることを信じていたということが伺える部分である。そして、罪人・悪人ほど救いがあるという考え方は、キリストの「放蕩息子」の喩えでも語られているのと同様に、西田が傾倒していた親鸞の「悪人正機説」とも通じるものがある。いわば「善悪の彼岸」に真理はあるというところで、西田はワイルドと共鳴していたのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?