西田幾多郎とオスカー・ワイルド——『善の研究』より
西田幾多郎の主著『善の研究』より、第四編「宗教」:第四章「神と世界」より。本書は「純粋経験」「実在」「善」「宗教」の四編から成るが、その最後の「宗教」のほぼ末尾の部分である。ここでは、西田が「性善説」に立っていたということがはっきりと分かる。ここでは「悪は存在するか」というテーマについて西田が論じ、「本来的な悪はない」と断言している。「宗教」のカテゴリーで論じられているが、「善/悪とは何か」という倫理問題と深く関連する部分である。
西田いわく、「物はすべてその本来においては善である」という。なぜなら、西田は道徳観念も「実在」の立場から論じており、実在体系の立場からすると、悪とは「実在体系の矛盾衝突」から起きているにすぎないという。また時代によって何が悪とされるという道徳観かも変遷するため、絶対的な悪はない、むしろそれは一種の「仮象」と言えるわけである。
また「罪悪」の意識、つまり「罪」の意識というものは一種の虚構であるけれども、私たちの人生においてそれは不可欠のものであるとも西田は述べる。罪悪の観念は、私たちをむしろ「完成させる」と西田は言う。なぜなら、人間は罪を意識し、それを悔い改めることで精神的に向上し、本来的なあり方へと変革することができるからである。
それに関連して、西田はオスカー・ワイルドの『獄中記』の中の記述を挙げている。獄中記の一節は次の通りである。
これはワイルドが聖書の中の「放蕩息子」の喩え話に関連させて述べている部分である。西田はワイルドの『獄中記』に大きな感銘を受けていたようだ。そして『善の研究』でワイルドを引用して述べているところは、西田があくまで人間の本性は「善」であることを信じていたということが伺える部分である。そして、罪人・悪人ほど救いがあるという考え方は、キリストの「放蕩息子」の喩えでも語られているのと同様に、西田が傾倒していた親鸞の「悪人正機説」とも通じるものがある。いわば「善悪の彼岸」に真理はあるというところで、西田はワイルドと共鳴していたのである。
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