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【連載小説】『小さな悲劇で満ちたこの世界で』 13. 脱出

【これまでのお話】
プロローグ
1. 硝子のマリア像 2. 不器用な教え子
3. 弱い男
4. 都合のいい夫
5. 好奇心
6. 悲劇の未亡人
7. 刑事たち
8. 交わる運命
9. 未亡人の告白
10. 藤原美羽
11. 不幸な少女
12. 消えた未亡人

13. 脱出
 
 私、安田晴香は、筑波山の麓で生まれ育ちました。物心つく前に父は亡くなりました。母は旅館と畑の仕事で忙しく、話すらあまりしたことがありませんでした。
 父方の祖父母が近くに住んでおり、私は祖父母の家をよく訪れました。母とは心が通じませんでしたが、祖父母のおかげで寂しいと思ったことはありませんでした。
 でも、私が小学校5年生のとき、私のそれなりに幸せな生活は終わりました。
 つくば市内の大規模工事の仕事で、足場職人の佐藤源次が客として母の旅館にやってきました。仕事が終わっても、佐藤源次は長々と居座りました。
 母が源次と情を交わす仲になったことは、子供の私にも分かりました。嫌な気持ちにはなりましたが、私にはどうでもよいことでした。
 ただ、祖父母が源次のことを毛嫌いし、母との関係がこじれ、母は私に祖父母の家に行くことを禁じました。私は、忙しい母の目を盗んで祖父母に会いに行きました。
 何度かそんな風に祖父母を訪れているうちに、母に見つかってしまいました。母は私を竹のものさしで叩きました。恐ろしくなり、祖父母の家から足が遠のきました。
 必然的に、私が家にいる時間が長くなりました。私が高校に入ると、母は私に旅館の手伝いを頼むようになりました。あまり仕事に行かず、棟続きの自宅でごろごろしている源次と顔を合わせる時間も増えました。
 源次は、気持ち悪い視線を向けてきましたが、私は気づかぬふりをしました。源次は私に自分のことを「源次さん」と呼ばせていました。
 高校1年生の夏休み、母は畑の草取りに出かけました。私は母に頼まれた旅館の客室の掃除をしていました。
 掃除する私に、部屋から部屋へと源次がついてきました。私は、気まずかったので何か言わねばと思い、苦しまぎれに言いました。
「源次さん、暑いね。冷蔵庫にアイスクリームがあるよ。食べだらどうですか」
すると、源次は突然私にのしかかってきました。
「アイスクリームより晴香ぢゃんがいい」
 工事人足の仕事で鍛えた源次は、いとも簡単に私を抑えつけ、動けなくしました。手で口を押さえられ、叫ぶこともできませんでした。
 源次は私の中に無理やり押し入ってきました。恐怖と痛みと恥ずかしさでおかしくなりそうでした。
 ことを終えると、涙でぐちゃぐちゃになった私の顔から手を離し、身なりを整えようとする私を舐めるように見て言いました。
「ちょぐぢょぐ頼むな、晴香ぢゃん」
私は絶望的な気持ちになりました。
 源次とのことは母には言えませんでした。でも、母は、源次が私を見る目つきには気づいていました。
 母は、私に辛く当たるようになりました。嫉妬だったと思います。以前は単に無関心だったのが、まるで汚いものを見るような目で私を見るようになりました。
 母の私への態度を見て警戒した源次は、高1の夏の1度きりで、私と関係を持つのをあきらめたように見えました。
 家にはいつもぴりぴりと緊張した空気が流れていました。そして母の私への嫌悪が消えることはありませんでした。
 私は、母の嫌悪に気づかぬふりをして、従順に母の言うとおり、旅館や畑仕事を手伝い、嫌なことを忘れるために必死に勉強しました。
 母は私が大学へ進学することに反対でした。行きたければ自分で金を貯めて行けと言われていました。そして、私もそうするつもりでした。まずは働いて家を出ようと思い、高校卒業後は、土浦のデパートに勤めることになっていました。
 高校の卒業式を迎え、私はあと少しで家から出て安心して暮らせると、明るい気持ちになっていました。ですから、母が卒業式にも来ないで、卒業式の後で旅館の風呂場の掃除を私に命じても全然平気でした。
 母は買い物に出かけていました。風呂場に現れた源次は酒に酔っていました。掃除している私を見て、少しふらついた足取りで私に近づき、私に抱きつこうとしました。
 私は思い切り源次を突き飛ばしました。源次はタイル張りの浴槽の角に後ろ向きに倒れました。そして、角に当たったあと、風呂場の床に乾いた音を立てて仰向けに倒れました。
 源次の後頭部から大量の血が流れて、みるみるうちに血溜まりになりました。殺してしまったと恐ろしく思いました。でも同時に、源次は当然の報いを受けたのだとも思いました。
 私は、最低限の身の回りのものや着替えを、高校に持っていっていたデイバッグに詰め込みました。貯めておいた祖父母からのお年玉や小遣いの40万円、それから旅館の金庫にあった30万円を盗みました。
 それからバスで土浦に向かいました。土浦から常磐線で上野まで行き、京浜東北線と地下鉄を乗り継いで新宿に行きました。
 生まれてはじめて訪れた東京でした。なぜ新宿に行こうと思ったのか、はっきりとは分かりません。でも、テレビの影響でしょうか。なぜか、私にとっては新宿が東京だったのです。
 東京への道すがら、私は油断して源次にすきをみせたことをひどく悔やみました。そして、悪人には2度とすきは見せまいと誓いました。(つづく


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