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【連載小説】『小さな悲劇に満ちたこの世界で』4. 都合のいい夫(3279字)

【これまでのお話】
プロローグ
1. 硝子のマリア像 2. 不器用な教え子
3. 弱い男

4. 都合のいい夫

 事件直後、特捜本部は、変質者が物取り目的で、不用心な大学内に侵入して犯行におよんだ線が濃厚だと踏んでいた。
 被害者の石川修は、政治家でもなければ暴力団関係者でもない。研究者とは言え、多額の金銭的利害関係が生じうる医療や科学技術分野の研究に携わっていたわけでもなかった。
 石川は、地方都市で平凡な生活を送る一般人だ。そんな石川が殺されるほどの恨みを買ったり、トラブルに巻き込まれたりするというのは考えにくかった。
 しかし予想に反して、井口聡子と道長信介という2人の明らかに動機を持つ容疑者が浮かんだ。そしてさらに、特捜本部は、3人目の容疑者に行き着いた。大橋玲二れいじという、県内に本社を構えググローバル展開する電子部品メーカーに勤務するエンジニアだ。
 東大の大学院を修了し、33歳にして年収は1,000万を超えていた。アロマサロンのチェーンを経営する6歳年上の妻純奈じゅんなと、丸の内のタワーマンションに住んでいた。
 実は大橋は、事件の日以前、石川との面識は一切ない。面識があったのは妻の純奈だ。昨春、聖マシュー大学で一般市民向けに「パーソナリティを学んで楽に生きよう」という公開講座が開かれた。この講座を石川が担当し、純奈が参加したのだった。
 講座は週1回、5回で完結だった。純奈は、毎回講座が終わると教壇の石川のもとへ行き、質問や雑談をしてから帰ったという。
 石川は昨今の大学教員らしくツイッターのアカウントを持っており、公開講座のシラバスにもURLが記載されていた。
 聖マシュー大の学生、心理学に関心のある学外の人々、そして公開講座参加者も石川のアカウントをフォローしていた。そして律儀な石川はそのほとんどをフォローしていた。
 純奈も石川のいわゆる「フォロワー」であった。かといって、石川が純奈と現実世界でも友人として交流があったことは誰も知らなかったし、またそれ示す証拠も一切出なかった。
 ツイッターをはじめとするSNSには、目を覆いたくなるような暴言や誹謗ひぼう中傷もある。それを考えると、石川のツイッターのタイムラインは、おおむねつまらないほど平和なものだった。
 季節の花の写真や朝の挨拶、出版した本の宣伝、大学の授業の紹介、公開講座のお知らせなどだった。ときどき、フォロワーからの心理学関係の質問に答えたり、悩み相談に対応したりしていた。
 しかしその平和な石川のタイムラインに、「legio_79」というユーザー名を持つ者が、個人的な恨みと思われる投稿をしていた。「legio_79」は昨年の12月以降、石川宛てにときどきリプライしていた。
 
――妻にちょっかいを出さないでください。
――あなたはそれでも教育者ですか。
――メッセージも無視ですか。
 
 そして最近に至っては、何も返答しない石川に苛立ちが募っていた。
 
――いい加減にしろ。この女たらしが。人の幸せを壊して平気なのか。
――お前の学生に同情する。お前みたいな薄汚い人間に教わらなきゃならないなんてな。
 
口調も内容もエスカレートしていった。
 ツイッターで本名をユーザー名として使用するのは、多くが石川のように仕事関係でツイッターを利用している者だ。
 多くのユーザーは、ニックネームを使用している。したがって、はじめは「legio_79」というユーザーが大橋玲二とは分からなかった。
 ユーザー情報の開示には時間がかかるため、若い捜査員たちが石川のフォロワーのアカウントを一つ一つ調べた。「legio_79」が、もう一人の石川のフォロワー、大橋純奈もフォローしていることが分かった。
 純奈は、アロマサロンのPRのためにツイッターを利用していた。それで、本名をユーザー名として使っていたのだ。「legio_79」が、投稿で「妻」と書いていたことから、大橋玲二に辿り着いた。
 大橋は、ツイッターの投稿内容について説明を求められ、顔面蒼白で打ち明けた。
「石川は、石川先生はうちの家内とおかしな関係になっていたんです。公開講座で知り合って、そのあとから家内の様子がおかしくなって。私と外出するのを嫌がるようになりました。仕事のある日もない日も、何の連絡もなく帰ってこない日もありました。訊いても『関係ない』の一点張りで不機嫌になりました」
 大橋は涙声になりながら続けた。
「だんだん私への態度がひどくなりました。私のやることは何でもけなすようになりました。いつもイライラしていて、先月は夕食中に突然『あんたとなんか結婚するんじゃなかった』と叫んで、味噌汁の入った椀を投げつけられました」
 妻の純奈にも事情を尋ねた。純奈は、殺人事件の捜査と聞いてひどく取り乱した。
「あの人、そんなことしてたんですか。なんでそんなこと。石川先生、殺されたんですよね。うちの夫がやったんだったらどうなるんですか。やだわ、あの人、困るわ。石川先生なんて関係ないのに。そりゃ、石川先生みたいなイケメンが夫だったらよかったのになあとは思いましたよ」
 純奈は悪びれた様子もなく、夫との関係を取り繕うとはせず露骨に本音を話した。
「あの人、食べるときに『くちゃくちゃ』って音立てるんです。結婚前からすごく嫌で、何度も注意したんですけど直らなくて。それに、理系の人でしょ。何ていうか、女が喜ぶ話ができないんですよね。つまらないって言うか。夜もね。東大で教えたほうがいいですよね、そういうことも。でもほら、東大だし、年収高いし、私も30過ぎてたし、結婚したんですよね」
 純奈は、夫の玲二のことを好き勝手に散々こき下ろし、夫の身を案ずる様子を微塵みじんも見せなかった。
 話を聞いていた捜査員は純奈の態度にすっかり呆れて、単なる思い込みで石川に恨みをいだいた玲二を哀れに思った。
 大橋玲二は、事件当日は土曜日で会社が休みだったため、一日中自宅にいたという。妻の純奈は、前日18日、玲二がこぼしていたとおり帰宅しなかった。
 純奈は仕事のあと、大学時代の友人で、アロマサロンの一店舗を任せている島本翔子とサウナに泊まったのだった。純奈が帰宅したのは19日の夜10時頃で、玲二は居間でテレビを見ていたという。
 大橋夫妻の住むタワーマンションの管理会社は、正面玄関に管理人兼警備員を常駐させ、防犯カメラも設置している。
 大橋玲二は、18日午後8時57分に正面玄関を通過し、次に姿を現したのは20日の午前8時20分だった。
 道路から地下駐車場への出入り口には開閉式のバーが設置されており、ETCの自動識別でバーが上がり居住者だけが出入りできるようになっている。
 玲二のレクサスは、推定犯行時刻には間違いなく駐車場にあった。また、防犯カメラに映ることなく、車に乗らずに徒歩で駐車場の出入り口から敷地外に出ることは不可能だった。
 ただ、マンションの防犯システムには穴があった。1階にあるゴミ置き場にある通用口の扉は、鍵さえ持っていれば自由に開けられた。
 そして住民の全員が鍵を持っており、防犯カメラも設置されていない。つまり、事件当日、大橋玲二は誰にも気づかれずに通用口から出入りすることができたのだ。
 捜査会議は、井口聡子、道長信介、大橋玲二の証言の裏を取ること、3人の容疑者と犯行を結びつける証拠を探すこと、そして、引き続き他の可能性を探ることを確認し散会した。
 警視正の島田は、道長の犯行説に思い入れがあるようだったが、まだまだ捜査は始まったばかりだった。それでも、容疑者が早期に浮かんだことで、特捜本部では楽観的な空気が漂っていた。
 袴田は部屋の前の方で立ち上がる城島警部に気づいた。振り返った城島に会釈した。城島は、「ようっ」と声に出さず、顔をほころばせた。
 袴田は足早に城島に近づいた。
「お疲れさまです」
そう言う袴田に城島は尋ねた。
「お疲れ。どうだ、特捜本部は?」
「勉強になります」
「おう、そうか。それはよかった。しっかり勉強してくれ。捜査も期待しとるぞ」
 城島は、袴田の肩を軽く叩いて部屋の出口に向かって歩いていった。
 袴田は城島の後ろ姿を見送りながら、入り口に向いて立っていた現場のマリア像のことを考えていた。
「この三人の被疑者たちが犯行後にマリア像をあんな風に机の上に置くなんてことをするだろうか」
袴田は、どの被疑者にもしっくりこないものを感じた。(つづく

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