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アウトプット合宿

友人が企画した2週間の《創作物アウトプット合宿》。本日が最終日である。

結論から言うと、参加して本当に良かった。合宿といっても泊まり込みではなく、オンライン上でお互いの創作物を送り合うというものだったが、とても楽しかった。毎日出せたわけではないけれど、この文章を含めて12個の創作物をアウトプットすることができた。こんなことは、人生初である。私は"エッセイのようなもの"や"短編すぎる小説"という形で、他ふたりはそれぞれ小説・その他文章・曲・絵などのさまざまな形で創作していた。ふたりの作品が見れることも、とても楽しかった。

最初から誘われたわけではなく、企画を知った私が「参加したいけど勇気がない」とツイートをしただけだった。そうしたらなんと、友人が私のツイートに気付いてくれて、声をかけてくれた。普段からも学生時代も、特に何の創作もしていない私。強いて言うなら、高校生の時に自主選択した美術の"授業"での創作が最後である。

普段から創作をしている友人ふたりとの合宿。自分なんかに何かを創り出すことができるのだろうか。ふたりに見せられるものが創れるだろうか。少し不安に思いながらも、何故かわくわくしていた。「2週間、創作物を送り合う」なんて、人生で初めてだ。基本的に何事においても“自分よりできる人間“が周りに多い環境であったため、誰かに自分の創ったものを見せるなんて、怖くてできなかった。自分から落ち込みにいくようなものだったから。けれど、今回参加しようと思ったのは「このふたりなら否定しないで見てくれるかもしれない」と思えたからである。

結果として、ふたりは一度も否定せずにいてくれた。私の文章を読んでくれて、時には感想を呟いてくれた。このnoteで投稿した物も多々あるため、ふたり以外の人も私の文章を読んでくれた。知っている人も見知らぬ人も「いいね」をつけてくれた。この事実が本当に嬉しかった。

今回の合宿で、心の奥底に眠っていた “小説家になりたい” “文章を書く人になりたい”という気持ちが、ひょっこりと顔を出してきた。
小学生の頃から、本を読むことが好きな方だった。中学生の頃は地域の作文コンクールで賞をもらった。特に中学生の頃は幾度となく『耳をすませば』を見ていた。雫が小説を書き、聖司がバイオリンを作っている姿を見て“私もこんなふうになれたらな”と漠然と思っていた。けれど、部活(吹奏楽部)が忙しかったり、いじめられていたり、実家が嫌いだった(家に帰りたくなかった)りと、何かを創作する身体と心の余裕など、無かったのである。言い訳に聞こえるかもしれないが、当時の私には憧れや夢を抱いて何かを行動することができなかった。世を恨むので精一杯だった。

それからもぼんやりと“小説家になってみたい”という気持ちが出てきたこともあったが、いつの間にか忘れてしまい、気づいたら大人になっていた。大人になった今、何かを新しく始めたり再開したりすることは正直憚られる。大人といってもまだ20代後半だ。それなのに、何かを新しく始めたり昔の憧れを追い求めることに一抹の恐怖を抱いていた。

仕事の合間や仕事終わりに素敵な小説を読んで、心が癒されたときに見え隠れしていた気持ち。“もう手遅れだ”と、蓋をしていた気持ちが溢れてきた。合宿が、ふたりの存在が、創作物が、読んでくれた人たちが、その蓋を開けてくれた。

それに、今回新たに得た気づきがある。それは、別に小説家になれなくても、“小説家になりたい”という気持ちは持ち続けていて良いのだということ。その気持ちが日々を明るくしてくれるのであれば、それで良いのである。もちろん、小説家になれたらそれが一番だ。けれど、「小説家になれない=小説家になりたい気持ちを捨てる」というのは違う。そこはイコールではない。このことに気付けて、私は心がとても軽くなった。

毎年気持ちが海底まで沈んでいた4月は、友人のおかげで楽しい4月となった。数億年ぶりだ。4月を“楽しい”なんて思えたのは。

合宿は本日をもって終了するが、今後も気まぐれに書き続けていけたらいいなと思う。ふたりの友人、ならびに私の文章を読んでくださった方々には感謝の気持ちでいっぱいである。




ありがとうございました。



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