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プラーナと霊界、宇宙人、高次元存在、神を真面目に考える ―その1―

※この記事は、前回までの流れを受けて書いています。この記事単独でも読めますが、以前の記事を参考にしていただくと、より流れがつかめるかと思います。

コスモス(Kosmos)

前回までの記事は、この世界はコンピュータシュミレーションのような世界で、目の前の物理的な現実世界は、何らかのプログラミングによって作られた写像のようなものだと述べました。

そして、その物理的な現実世界は、超ミクロ世界では素粒子、超マクロでは銀河宇宙や大宇宙まですべて、プログラミングされた情報処理の結果であるということです。

その関係性は、すべての物理現象はミクロからマクロまで、さながらスクリーンに写る映画のようなものです。

だから、よく言われるこの世界の最小構成単位が何らかの極小の素粒子であり、その原理原則が解明されればそれこそが「万物の理論である」、という主張は、物理宇宙の原理であって、万物ではありません。

それは、スクリーンに投影された映像の最小構成要素にしか過ぎません。
それは物理現象面でのみの観察可能な物理現象の最小単位にしか過ぎないというわけです。映画の映像をクローズアップしてみてみると、様々な色合いのドット(点)が集まって映像を構成しているのがわかります。

物理現象での最小構成単位は、映画のドットを見ているだけです。

哲学者、意思研究者の重鎮K・ウィルバーは観察可能な客観的な面のみならず、意識という主観的な面も含む世界を、宇宙(universe, cosmos)ではなくコスモス(Kosmos)と表現しています。
 
日常で宇宙とういう言葉を聞くと、観察可能な物理宇宙のみを対象に「万物の理論」という言葉をつけますが、この宇宙には物理的に観察できない感情や意識、心や間主観的な領域も生き生きと存在しています。
それらはすべて物理的な現象ではなく、情報的な現象として存在しています。
 

三位一体

これは、先ほどのスクリーンに映った映画の話にもどると、映画は、監督が「このような話を撮りたい」という個人的な思いから誕生します。
 
しかし映画というものは監督一人では出来ません。監督の思いを実現するための、俳優や脚本家、演出家、美術、小道具、エキストラ、音楽、アシスタントディレクターという現場の人たちの力のサポートがものを言います。
 
また、現場の力だけでは映画は出来ません。スポンサーの都合や、この映画であれば今の世の中ならばヒットして興行収入が回収できるタイミングなどの社会的な情勢も大きく絡んできます。
 
まさに映画という「対象」は、監督を中心とした現場である「主体」と、スポンサーや、社会の流行などの「関係性、関連性」という三位一体で構成されています。
 
情報的な相互作用(情報処理)の結果として物理現象が現れますが、物理現象であっても、それは情報空間の一つの形態にしかすぎません。認知科学者の苫米地博士は、自身の超情報場仮説の中で、すべては情報空間の現れであり、情報空間の抽象度の低い部分を物理現象である、ということを述べています。
 
物理現象での極小の世界である素粒子は、情報空間の何らかの情報処理で出来ているということです。その最も基本的なユニットが生命素粒子であろうということです。
 
生命素粒子。それは古来の伝統宗教の中の中核でもある、ヴェーダの体系ではプラーナという言葉として表現されているのではないか、と私は考えています。
 
プラーナは気功では「気」とも呼ばれているものです。それがコスモス(Kosmos)の基本ユニットなのではないかと考えています。
 

スピリチュアルの核心とプラーナ

ところで、このプラーナについて調べると、まだ現代科学ではプラーナの存在については公にしてはいないものの、ヴェーダ哲学や気功、神道の世界では数千年前以上の古来から唱えられ続けていた概念でした。
 
スピリチュアルの核心部分の智慧として存在していたということです。
 
様々な宗教やスピリチュアルの修行過程や教義の過程は、古今東西数え切れないほど存在しますが、その核心は何かと言えば「救済」という概念に行き着くのではないでしょうか(神を否定している上座仏教は保留にしたとしても)。
 
神という超越した存在があって、自身の存在を神に近づけていく体系過程が宗教ともよべるかと思います。その道程で、人は自己中心的な存在として生きるのではなく、他者に対しての思いやりや愛情、共感力、貢献力というものが結果として身についていきます。
 
「救済」されるのは、自我という物質面に固執しすぎて苦しんでいたことにも気がつかなかった自分です。そして、タマネギの皮を剥ぐように、自分という幻想、エゴが薄くなっていく旅に、自分を含めた家族や地域、社会、国、地球、宇宙というように意識の範囲が広がっていきます。
 
自分を含めた他者の救済(幻想からの覚醒)を願い実行する道がスピリチュアルの核心ともいえます。
 
つまり、意識の範囲が広がることで、より他者を意識して生きることが出来るようになります。
 
引き寄せの法則やポジティブ思考は技術や知識的なものです。その技術や知識を「自分が」金持ちになりたい、出世したい、恋人がほしい、美しくなりたいというものだけに意識すると、道徳的に悪いとか、劣っているとか言うわけではなくて、単に意識している範囲が狭すぎて、エネルギーが循環しません。
 
極端な話出世して美しい恋人がいて、自分も若さを保っても、自分の子どもや家族が意識の対象外であれば、いつかは破綻します。第一そのような生き方は嫌われてしまいます。

スピリチュアルという分野

生きていく中で、世の中には様々な領域があります。芸術、スポーツ、学問、宗教、哲学、仕事、人間関係、とと様々な分野があります。
 
それぞれの分野はイメージが統一出来そうですが、ことスピリチュアルに関しては、千差万別です。しかし、様々な分野で共通することは、それぞれ分野で知識と技術を身につけ、学習していくということでは、ほとんどすべての領域で共通するかと思います。
 
ここで、スピリチュアルについて、スポーツという分野を例に考えてみたいと思います。
 
例えば野球を例にすると、野球の試合に出て結果を出すには毎日食事制限をしたり、腕立て伏せやジョギング、様々な筋トレをベースに、バッティングやピッチングというそれぞれの練習メニューをこなします。野球を例にしましたが、それはバスケやサッカー、格闘技など、他の競技でも同じようなことがいえます。
 
宗教やスピリチュアルなどの霊的な世界でも、毎日の瞑想や祈祷、祈りという行為はスポーツ選手でいうところの筋トレのようなもので、後はそれぞれの置かれた生活や職業で、人のために役に立つための技量を上げていくことに似通うかとも思います。
 
スポーツ選手の日々の練習や鍛錬は、体力、集中力、持続力、自己コントロール力など、脳と心を鍛えることに繋がっています。
 
そうすることで、スポーツで言うと今まで出来なかったアクロバティイクな技や体力、場合によっては超人的な技能が身につくのはオリンピック・パラリンピックのメダリストを見ればわかるでしょう。
 
霊的な修行過程においては日常生活で鍛えられる部分は何かといえば、共感力、人間性、道徳性というような抽象的なものです。それは哲学的、神学的に考察すると、「神」や「悟り」のような領域になるかともいます。
 
そしてその修行過程で身につく能力は何なのでしょうか?

スピリチュアル界

スポーツ界ではマイケルジョーダンやアイルトンセナ、大谷選手などスポーツの領域を超えて有名になっていく存在もいます。
ではスピリチュアルの世界ではどうでしょうか?こうした霊的な求道者や探求者は古今東西にさまざまに存在しますが、スポーツ選手ほど有名ではないし、その数も少ないでしょう。しかしその影響力は絶大なものがあります。

一人で世界を変え、支えるほどのエネルギーがあると言っても過言ではないでしょう。

例えば釈迦やキリストはその最高峰の位置にいると過程できます。空海や最澄、安倍晴明・・・といった存在たちもそうなのかもしれません。しかし、歴史上に残るそのような大天才達はすぐに認識できるかもしれませんが、その領域はスポーツ選手のようにありふれた存在ではありません。

認識されていないだけで、確実に存在しているわけです。

パラマン・ヨガナンダ「あるヨギの自叙伝」

上記の方々と同様に影響力があり、知名度がある霊的探求者としてパラマン・ヨガナンダがいます。
パラマハンサ・ヨガナンダ - Wikipedia

ヨガナンダは生前に「あるヨギの自叙伝」という本を著しています。
スティーブ・ジョブズが生前、自身のi padに唯一ダウンロードしていた本として有名になったのが、この「あるヨギの自叙伝」という現物は辞書みたいにとても分厚い本です。

21世紀を代表する偉大な起業家であるジョブズは、このスピリチュアルな本と高校生の頃に出会い、appleという大企業を作りあげた後も毎年定期的に読み返していたというほどの愛読書でした。
この本では、ヨガナンダが亡き師スリ・ユクテスワと再開する場面が描かれています。


同著「p428第43章 スリ・ユクテスワの復活」。そこでは、すでに死んで無くなったスリ・ユクテスワはライフトロンで出来た体でヨガナンダと再会します。ライフトロンとは、プラーナをヨガナンダが別の名で呼んだものです。
ユクテスワは、ヒラニャローカと呼ばれる幽界(おそらくプラーナなどが主な構成要素の星ではないかと私は考えますが・・・)の星にいたと言います。
ユクテスワは、ヨガナンダに幽界の話をします。そこでは、

・幽界には幽界人の大勢すんでいる幽質の星がたくさんある。幽界の宇宙にも無数の幽質の太陽系や星座がある。それらは物質界の太陽や月よりもはるかに美しい。
・幽界人一つの星から別の星へ旅行するのに、幽体の飛行機である光の塊を用いる。これは電気や放射性エネルギーよりも早い。
・ヒラニャローカのような高い幽界でない普通の幽界には、地上から北ばかりの何百万という人間と、無数の要請、人魚、動物、妖鬼、小人、魔神、精霊などがそれぞれのカルマによる資格に応じて、異なった遊星にすんでいる。
・そして善霊と悪霊は、その程度によって、いろいろな波動の領域をそれぞれのすみかとして与えられている。
・ヒラヤニョーカの進化した住人たちは、幽界の長い昼と夜を通じて、ほとんど至福の中に浸りながら、宇宙政治上お複雑な問題の解決や、神を忘れて物質のとりこになっている魂たちの救済につい力している。

「「あるヨギの自叙伝
p428第43章 スリ・ユクテスワの復活」

というように、精神世界やオカルト、スピリチュアルでよく言われるありとあらゆる話をします。
本書には、輪廻転生や物質化現象、数千年も生き続けるヨギ・ババジについて、そして黄金の宮殿を目の前に出現させたりと、トンデモ本もびっくりの内容がちりばめられています。
本書は1945年に刊行した書籍であり、オックスフォード大学・文学博士理学博士のエヴァンスェンツ氏が序文を書いています。他、名だたる著名人や名誉教授、新聞社、研究者が絶賛しています。
またインド政府は1977年3月7日に、パラマンサ・ヨガナンダの記念切手を発行しています。

次は、ヨガナンダのこの話をどう解釈するかについて考えてみたいと思います。

つづく。


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