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#012_ざざっと成育歴①之四

〔生まれてから思春期までの私のこと〕

記録のような記憶☞打ち止めの回

 はてさて、続きましてな①之四。本当にこの章で最後になればよいのだけれども…。

他愛もない〝遊び
のことなどを…
 幼少期の頃は、あるがままなスタイルを貫くことができていたからか、まだ脳みそが若かったからなのか…(笑) 日常の些細なことから私的大事件までなネガポジな記憶が残っているのだが、思春期以降になると、嬉しかったり楽しかった思い出よりも、苦しくてもがいていた思い出の方が多くなっていくが、10歳の頃までの思い出はネガティブな思い出も自虐ネタくらいな記憶としてちょっと色褪せて残っており、楽しかった思い出のほうは、記憶は薄れていても感覚的だったり感情的には色濃くのこっている。
 その中でも印象深く残っている他愛のない思い出のナンバー1は、近所の子たちや同級生と様々な遊びをしていたことだ。
 私が小学校2年生頃くらいに、ゲームウォッチが流行しはじめたが我が家は購入してもらえなかったので、近所にすむ親戚の兄に借りたりして遊んだことはあったが、そういったゲームで遊んだことよりも、外遊びをして遊んだことのほうがよく覚えているしとても懐かしい。 
 低学年の頃までは、よく同級生の子とおままごとをしていた。おままごとの道具は、保育園や幼稚園の砂場の玩具を使ったりすることもあれば、道具がない時は、そこらへんに落ちている葉っぱやトレイなどのゴミなどをお皿にして、季節ごとの雑草や花や実を集めたもので、ご飯を作るマネをしたり、泥団子でおにぎり等をつくったりしてごっこ遊びをしていた。
 気候が良い時期は、おやつやお弁当を持って子どもたちだけで遠足にいったりもしていたし、夏は浜遊びや釣りをしていた。釣りは男子の遊びみたいなものだったので、男の子にまじって釣っていたワケではなく、下に弟がいたので弟が釣りをする時は私も一緒に釣りをしたりしていた。夏はアジゴ釣りをしたが餌が必要だったので、アジゴ釣りに行くときはいとこが帰省した時等は餌や道具にお金をかけて便乗で釣らせてもらっていた。
 日常の遊びの中で〝釣り〟でもしようということになった時は、おこづかいを餌に使うよりお菓子に使いたかったので、フナムシを獲りそれを餌に小魚を釣り、そして、その小魚をさばき餌にし、また別の魚を釣る。といったようなことをしたり、岩についている〝みな(みな貝)〟を石でたたき割って餌にしてみたり…。前日の刺身の残りがあれば刺身の残りをもらい、そういったものも餌にして〝ガラカブ〟を釣ったりすることもあった。
 アサリが採れはじめる時期は、学校が終わった後に友だちと浜で待ち合わせをして近所のおば様たちにまじり、アサリ貝を掘ることも遊びだったし、幼児期に溺れた小さな港は、干潮時干潟になる場所だったので、夏は、浜が干潟になるとアナジャコを採ったりして遊んだりした。それを釣りの餌にしていたこともあったような気がする。さすがに、海で泳ぐ時は監視役の大人がいないと遊泳禁止だったので、子どもだけで泳ぐことはなかったが、浜遊びや川遊びはしていた。
 ドドドど田舎だったこともあるし、昔だったからだとも思われるが学校の校庭は開放されていたので、休みの日で部活がない時間帯には、みんなの遊び場になっていた。年齢や男女関係なく〝サッカー〟や〝野球〟もしていたし、〝だるまさんがころんだ〟〝色つき鬼〟〝ひまわり〟〝缶蹴り〟〝かくれんぼ〟…etc。いろんな外遊びをその場にいる子どもたちで仲間にはいりたい人だけで集まって遊んでいたけれど、そういった遊びを現代の子どもたちは、学校の体育やレクレーションで行う機会しかないのだろうか? そう思うと、私たちの年代までは現代のようなバーチャルリアリティーな遊びはなかったけれど、アナログな遊びは豊かだったような気がする。それでも、私たちの年代(ちなみに私は現在47歳)は、全てのことが、アナログからデジタルへゆっくりと移行していく時期を過ごしていたので、ある意味現代に生れた子たちよりも、経験しているだろう物事の幅は多い気がする。それでも、自身の興味関心で趣味趣向は大きく分かれることにもなっていただろうし、偏ることにもなったのだろうなぁとも思う。ただ、私はこの年代に生まれ育ったことで現在の自分が良くも悪くも育まれたようなものなので、その時代に育まれていたネガティブな解毒が終わった現在としては、私の裡側にあった豊かさはこういった些細な遊びの経験からもたらされているだろう豊かさなのかもなぁとも思う。
 どーでもいいこと、語彙を変えると〝なんでもないようなこと〟が、彩りある人生でもあると気づかされる毎日になったからこそ、ドドドど田舎に生れたことは、なんだか不平等のように感じていたしすごく嫌だったけれど、私の持っていた〝豊かさ〟や〝感性〟は、そういった部分が〝根っこ〟になっているのかもなぁと思うようになった。そして、女の子の遊びに固執せず、その時の興味関心の向いた様々な遊びをしておいてよかったなぁと思う。

お気に入りの赤いビキニ
 地元の小学校は、私が小学校当時全校生徒130人くらいで田舎だったが制服があったし、体操服も指定の物だったし、水着は指定のものではなかったが一応スクール水着が着用することになっていた。
 年上の従姉がいたこともあり、伯母が時折お菓子や少しだけ新しい服も一緒に従姉〝おさがり〟を送ってくれていた。そのおさがりの中に真っ赤なビキニがあったようで幼稚園の頃から小学一年生の夏はその真っ赤な水着を着て泳いでいたようだ(笑) しかも、プライベートに限らず学校の水泳の授業でも…。同級生ほとんどの子たちがスクール水着の中、私一人だけ、その真っ赤なビキニを着ていたそう。その水着で従姉妹たちと海で泳いでいる写真があったのでプライベートの場面だけで着ていると思っていた。なので学校の水泳の授業でその水着を着ていたことは記憶が薄く、そのことを知ることになったのは、幼児期からお世話になっていた親戚の姉から教えてもらい知ることとなった。
 姉の話によれば、当時は同じ町内に中学校があった。中学校にプールが常設されていたので、そのプールを幼稚園や小学校も借りて使用していたので、中学校の教室からみえる水泳の授業を受けているスクール水着な小学生の中に一人だけ真っ赤な水着のビキニの子がいるのを発見した親戚の姉の友だちが、親戚の姉に『赤い水着の子は誰?』的な話になり、姉が『あれ、私の親戚の子』と説明したことがあるという話を、ある程度大きくなった時に聞くこととなった。 そして、その時はじめて、自分が人と違った行動をしていることが、おかしな行動だったのだということに気がついたのだった。(っていうか、遅いよ。遅すぎるよ私…。)ただ、おそらくその当時、母にも親戚の姉たちにも言われていたようにも思うのだが、我が強かったのか、こだわりが強かったのか、主体性ってやつなのか…。
 その当時の私は、人と違った行動や感性を不思議には感じても、空気を読むこともなく自分の意思を貫けていた人だった。そんな人が成長過程の中で主体性をなくすことになっただけではなく、メンタルがバラバラになるくらい乖離してしまうことになったのだから、家庭環境や教育における〝行動統制〟が如何に個性を失くすことになるだけではなく、己を見失い壊れてしまうようなことになってしまう事例の一例であることがわかっていただけないかと思うのだが、だから〝何〟って言われればそれまでなのだが…。
 それでも、小学2年生になり身体が大きくなったことから、お気に入りの水着が小さくなり、その頃からは必然的に指定の水着を着るようになった。 真っ赤な水着ならまだしもビキニで授業を受けていたのか…私。ただ、その当時の私は、そういったことが〝オカシイ〟ことだとも思ってなかったし、みんなと違うことが恥ずかしいとも感じていなかったのだと思う。もしかしたら、周囲の人たちや担任は何かいってたかもしれないが、覚えてないから聞こえていても、切り捨てられていたのかもしれない(笑) それか、私がよほど空気読めない鈍感娘だったからか人と全く違う行動をしても悪いと思っていなかったように思われる。
 ただ、天然系で鈍感だったけれども、人のいうことを真に受けてしまい信じやすい子どもだったからこそ、褒められたこともダメ出しされたり、〝バカ〟って言われたことも全部真に受け、様々な物事を全方位自身の内側に向けていてしまったことが後々私を闇落ちさせる原因となったと思われる。
 私には一つ下に弟がおり、その弟が私とは違ってお目めパッチりで可愛くて、しかも大人しくて賢い子だったからというのもあり、真逆な私は弟とよく比較されて育った。
 髪の毛の渦巻が左巻は〇〇だとか、渦が2つある人はバカだとか。そんなことを真に受けていたので、自分はバカなんだと思い込む要素にもなったのだろうと思う。
 そんな私を周囲の人たちは、バカにしながらでもそれなりの可愛らしさもあって『バカ』だと言ってたのだろうけれど、幼い頃の私は本当の意味で『バカ』と言われていたわけでもなかったことを汲み取ることができず、ただただ、その言葉を間に受けていた。本来は負けず嫌いのタイプだったのに内心悔しかっただろうに思うけれど、その当時の私は自虐する自分を笑ってもらうことに摩り替えてしまうことを戦略にしてしまった。ようは、そういった立ち位置に身を置くことが自身の〝居場所〟にしてしまうことになったのではないのだろうかも思ったりもする。
 自分は『バカ』だと間に受けていたその当時、テレビ放送されていたドラえもんをみて、のび太くんにすごく共感していたから『ドラえもん』が好きだった。自分は『バカ』だと思い込んでいたこともあり、幼稚園の頃は何かしらの勉強をしていたようだ。だから、そんなお勉強をしている私をみた近所に住む親戚の姉が

「今そんなに勉強していたらそのうち勉強したくなくなるよ」

と言っていたのだとか。
 私としては、みんなが『バカ』っていうから勉強すれば頭が良くなると単純に思って勉強していただけだ。でも小学校にあがり、テストの点数は満点をとることも多かったので、自分はそんなに『バカ』でもないのかもしれないと思うこともあったのだが、授業を受けるだけでテストの点数がとれる弟と違い、予習や復習をするなど努力をしないとテストで良い点数が採れなかったのは確かだったので、小5の時の校長が自宅学習に力をいれていたこともあり、その当時から中学2年生までは一日2時間は勉強をするような真面目な人だった。中学生時代のテスト期間中は、家からでないようにしていたし…。でも、今思うと、言語域の発達がなんだかななことになっていたからこそ、努力の方向性がそこまで実ることがなかったのかもしれないよね…なんて思ったりもする。というか、言葉の意味は調べればわかるのだが、単語と意味が腑に落ちていない状態、いわゆる知っているけどわかってない状況であったと思われるので、その当時の私の勉強の仕方は、ただ頭に詰め込むようなスタイルになってたのだろうなぁと思うと腑に落ちるのだ。
 学校教育はどうしても、概念を先に落とし込むことが望まれてしまうが、私のようなタイプの場合、言葉で物事を獲得したり理解するよりも先に映像で記憶され、それらが言語と結びつき自身の言葉として認知されるような情報処理が一番効率が良いようなのだ。要は視覚的に受け取ることでそれらが自らが獲得している言葉が溢れるように言語化されることで、言葉の獲得が長期記憶になりやすいっぽいので、担任の先生の教え方次第で、私の感性や偏差値もずいぶん変わっただろうなぁと思ったりする。なぜかと言えば、インプットはできても、それらが肚に落ちなければ、私にとってただの画像にすぎないからでもある。だから、そこに自分なりの意味付けが必要になるのだが、意味付けなんていらないっていうようなことを言ってた人が実は頭でっかちで、概念をしらないとか理解できてないという人たちもいるワケで…。っていうか、そういった自己矛盾に気がついてない人がメンタルケアや非言語のコミュニケーションが大切とか言ってる場合に、至極不快にかんじていたことは、こういうことでもあったのかとこうして綴っていて気がついた(笑) その言葉の持っている概念=私にとっての意味づけが必要であった。そこが、噛み合っていない状態だったからこそ、コミュニケーションでもすれ違うことになっていたのだろうなぁと思うとなんだか腑に落ちるじゃまいかこのやろうって口が悪いけどいってもいいですか?神様???

この章のさいごに…
 さて、生まれてから思春期間際までの『記録のような記憶たち』で、自分の中でより鮮明に覚えがあることをピックアップして綴ってはみたものの、他の話は、後の章に纏わる話の根っこになっているかもしれないエピソードとして出てくることもあるかもしれない。今現在の私が覚えている限りのことをフラッシュバックの機能を使ったりして、ざざっと書き連ねてみたのだが、過去を遡って言語化していることが脳みそに負担となってしまっているのか、秋が深まりはじめたこともあるからか、数年ぶりに毎日夢をみるようになってしまっている。私の場合、良くも悪くも言語化で発散されることが負担になることもあるのだ。あっキャパオーバーってやつが起きているのかもしれない。ただ、この後の章『思春期から青年期の変』は、もともともっていた凸凹な主体性が統制されていく時期でもあった大事な時期に、学校長の価値観や担任の先生の指導などが、私の元々持っていた資質を研磨することにならず、自身までも見失ってしまうようなことになってしまった時期なる。小学校高学年時代の先生から、やっと逃げ出せると思っていたが、中1の時の担任は更に最悪なこともあったようで、中学1年生の夏ごろから一時的にすっぽり記憶がぬけている時期があるということに気がついたのが、大人になってからだったのだが、そこを踏まえ、青年期にはいるまでの、青く茂る草原の中をもがきながらでも走りぬいてしまえば、その時意味はわからずとも大人になれば解るようになるという希望を持ち健気に自身と向き合っていた時代の話になる。どういった経緯で人格が分裂してしまうことになったのかが、その道の人たちへ伝わればいいなと思う。そして、当時を振り返りそれらを改めて振り返りながら書き連ねることで、当時から握りしめ一旦手放せた物事を確認することで、改めて完結させることができればいいなと思う。

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