見出し画像

#015_ざざっと成育歴②の弐

※上記の写真はトイレマークにこだわっていた時期に息子が粘土でつくったピクトマークです。

〔思春期から青年期までの変〕

青々と茂る季節の迷路…続きまして

 過去を遡っていると、それらに纏わる様々なことを思い出しフラッシュバックが止まらない…なんて日々を暮らしている今日この頃ですが、いやー思い出すって結構大変な作業だなぁと思う。ざざっと成育歴なハズなのに、ざざっとと思っていたら、書き切れてない思い出をどんどん思い出す始末。いや、一応、これでも〝ざざっと〟とです。嫌味じゃないくて…。ということで、まずは同級生や先輩後輩、両親を含めた周囲の大人との関係性で、もがいていたことを綴っていきたいと思う。

価値観の違い
 小学校高学年になると2次成長期にはいることで、男女の身体の事や性の事、テレビ番組や好きな芸能人の事…etc 私にとっては取り立ててどーでもいいようなことが、同級生の大半の子たちにとっては、生活の一部であり、それが、自身のモチベーションを上げることでもあったのだろうと思う。特に、男子と女子の身体の違いより、女子特融の性のことやファッションのことなど、盛りたくさんになっていく女子は特に面倒くさいと思った。
 生物学上の性別が女性だとわかってはいても、当時の私には、女の子らしさとかあんまり関係なく、日焼けするのもお構いなしだったし、髪の毛も母が長い髪より短い髪のほうがいいといって、中学生に上がるころまではずっとショートだった。肌や爪のお手入れも全く気にならなかったし、気になったのは、ムダ毛の処理くらいは気になって(邪魔だった)きちんと処理をしてたぐらいかなぁ。
 休み時間になると、新製品のヘアケア用品などの話やアイドルの話、当時流行っていたバラエティ番組やドラマの話。どれも、私にはついていけなかった。特に一部のドラマやバラエティ番組は、親に禁止されていてみれなかったのだ。〝毎度お騒がせします〟〝俺たちひょうきん族〟はリアルタイムのある程度の時期までみせてもらえなかった。それでも〝8時だよ全員集合〟は観ていたのだけれど…。ひょうきん族と全員集合の何が違うのか私にはあまりわからなかった。そして、あえて、何がダメなのか突っ込んで聞くこともできなかったし、あえて反抗したこともなかった。というか、どんだけいい子だったんでしょうねぇ。私も弟も。
 ドラマに関してみせてもらえなかった理由は、ちょっとおませな内容だったからだというのは中学生になってわかったが〝俺たちひょうきん族〟を見せてもらえなかった理由は、両親が某大御所のお二人が嫌いだったから〝人をバカにしているような言い回しやコントが嫌だ〟と父がよくいっていた。今でもそれは変わってないようだ(笑) 私も自分が嫌いな人の番組はみないほうだが、だからといって子どもにみせないということはなく、自分がみないようにしていることで回避している。
 私は某大御所の方たちのことは嫌いではないので、大人になってからは結構見ていたほうだが〝俺たちひょうきん族〟の中のネタでは『カスタネットマン』が大好きだった。ただ、あのネタの『出て出て、休んで休んで』の下りの意味は、リアタイの時ぼんやりとした感覚でしか受け取れておらず、大人になってやっと意味がわかったといった具合だ。あれって、T氏がお仕事に出てきたり出てこなかったり…的な話でもあったのですねぇ。その意味がわかった時に面白さが倍増した。(っていうか、遅いよ。遅すぎるよ…自分)
 社会性の発達が、その当時から少し遅れていたからこそ、みんなの話を聞くだけとなってしまったり、皆の話を聞いていても意味がわからず、1人置いてけぼりになっている気持ちになっていた。ただ、もし、前述のドラマやバラエティ番組をリアタイでみれていたとしても番組の意図することやそれらの感想を同級生と共感できたかどうかはわからないのだが…。
 それに、我が家の場合、親の価値観でテレビの視聴も購入できるものも左右されていた。それに、そんな親に対して反発したこともなかった。ただ、女子トークの話題の中でヘアケア製品やボディケア用の新製品を使用した時の感想などは、私はずっとついていくことができなかった。なぜかというと、母も過敏だったこともあり、使用するものに〝こだわり〟があったことで、私たち家族は母が選んだものを使用するしかなかった。というか、その当時、母の選んだものを使用することに疑問を感じることもなければ、それを問題に感じたことがなかった。ただ、同級生の女子の中には、おませになってる子もいるワケで…。なので、そういった子たちからしたら、新製品がでたらそれを使用してみたり、ずっと同じ商品を使い続けることはない家庭もあるようで、シャンプーがいつになっても変わることのない我が家の場合には、私から漂ってくる匂いもずっと同じだったことを、陰でいろいろいわれていたようだった。その当時の私は、そういった陰口を人づてに聞いたりした時ちょっと傷ついていたのだが、だからといって〝変えたい〟と思ったことはなかったような気もするし、母はそんなつもりはないが絶対君主のような状況だったので、いいだしづらかったのかもしれない。 それでも、親戚の家に遊びにいったり、祖父母の家に泊まることもあったので、時々、自宅とは違うシャンプーやリンスを使用することができたりもしたので、そんなに問題にも思わなかったのかもしれない。ただ、大人になり一度ドロップアウトした後、親元から離れて20年近く経っても、母のことがいつもどこか頭の中にあるからか、自分の好みのシャンプーさえ自分好みで選べてなかったことに気がついた時は、本当に愕然とした気持ちになった。そして、母の存在が元旦那との摩擦にもなっていたことも気がつき〝取捨選択〟できていると思っていた自分が、実は何も選べてなかったことにも気がつくことになった。それからは、全てのことにおいて、自分に言い聞かせるように些細なことまで〝選ぶ〟ことを吟味するようになった。
 何かを〝選ぶ〟たびに、頭の中に浮かんでくる母からの様々な言葉を打ち消しながら〝自分の価値で選ぶ〟という練習を10年位前からはじめ約5年間行って、ようやく自分の好みがわかるようになった。
 後、当時、流行っていたファミコン。流行していた当時から、我が家にはファミコンはなかった。母がゲームはさせない主義だったからだ。ただ、我が家にはなかったけれど、近所にすむ親戚の従兄の家にはあり、それを借してもらえたので遊ぶことはできた。だが、私はゲームの才能がなかったので、スーパーマリオの一面をやっとクリアできるくらいだった。才能がなかったおかげもあり、あまりのめり込むことにならずにすんだのはよかったかもしれないと思っていたが、今現在でもパソコンや携帯でゲームをすることがあるが、一時期はまっても続くことがないのでそんなにゲームは好きでもないのかもしれない。それは、人間関係で人狼ゲームみたいなことを行っていたからなのかも…なんても思ったりもする。
 前述にもあるように、我が家は、母の価値観で購入できるものが決まっていた。だから、玩具やぬいぐるみは親に買ってもらったこともあるが、正直言って記憶がほとんどない。そのかわり、父方の叔父が、実家に帰省したり、クリスマスプレゼントで購入してくれたり…。近所のお姉さんからお下がりをもらうことのほうが多かったように思う。 
 それにしても、なぜ、母がぬいぐるみを購入してくれなかったのかには理由があったらし。当時も聞いたのかもしれないが、母はダメ出しする人間だったので、理由を聞くこともなくなったのだろうと思う。結果的に何故ぬいぐるみが嫌だったのかは、大人になってわかったのだが、ぬいぐるみや人形の目が苦手なのだそう。だから自宅に置きたくなかったのだとか。
 幼児期の私はそんなことはわからなかったし、全くお人形さんを持っていなかったワケでもなかったので、それが拗れる原因にはならなかったと思われるが、大人になっても特大のぬいぐるみへの憧れが薄れなかったのは、本当に自分が欲しかったぬいぐるみやお人形ではなかったからかもしれないなとも思う。そういったことに気がついたこともあり、自身を取り戻すべく養生生活を始めた間もない頃、約150㎝の特大リラックマをみつけたので購入した。お買い得だっただけではなく、とっても癒されている。これでも47歳のオバさんになるのだが…。自宅の中だけで楽しんでいるので、誰にも迷惑はかけていないから全く問題はないと思う。
 ただ、リラックマだったからよかっただけではなく、好きなキャラクターでも、大きさが結構ポイントなようだ。モフモフができ、それを両腕でぎゅっとハグができることが体感的に癒される。時々、息子も抱き着いたりしているくらいなので、おそらく適度にふわふわして反発せず、腕や身体全体でギュッと抱きしめるような感覚が癒しに繋がっているように思う。ただ、それがどういったことで心身に効果があっているのかわからないのだが、身体がぎゅっと内側に縮こまることで過緊張することになり、弛緩することにもなるのだろうか?なんて思ったりもしている。それは、好きなものを買ってもらえなかった不足感とは、また別な意味での身体からの要求なのだろうと思う。(個人的な感想デス)
 他には、服も同様で、服はそれなりに自分の好みの服を買ってもらっていたが、ピンクや赤系統の色は購入してもらえなかった。母の感覚では私に似合う色はブルー系だと思っていたようだし、私も自分が女子だからといって、ピンクや赤を好んではいなかった。それに、自分のことをボーイッシュな女の子だと思っていたのもある。高学年になる前までは、ワンピースが大好きで夏はよくワンピースを好んで着ていた。父方の伯母が従姉のお下がりの服の中に新品のワンピースを入れて送ってくれていたので、毎年夏は楽しみにしていた。でも、大好きだったワンピースも年齢があがるにつれて少なくなり、スカートを履くことも制服以外には少なくなっていった。それは、自分は顔立ちが良いほうでもなかったし、ぽっちゃりタイプだったので女の子らしい服は似合わないと思い込んでもいた。だから、少女漫画にでてくる、細身でさらさらなロングヘアの主人公に憧れていたこともあった。とりあえず、高校を卒業した後は、色黒なぽっちゃりさんから細くなって肌も色白だったことが判明。髪もサラサラのロングヘアも楽しんだので、その当時憧れていたヘアスタイルやファッションも楽しめたので、あの当時の小さな夢は叶ったということになる。そして、苦手だったピンクの服も苦手ではなくなったので、少し薄目でくすんだピンクは楽しめるようになった。あと、自分の価値観を変えるために行っていたことの1つの中にパーソナルカラー診断を受けたことがある。その診断をしたことで、自分の肌に似合わない服の色を選んでいたことがわかってから、選ぶ服の色も変わり着てみたい洋服の好みも結構変わった。そして、必要以上に買い込むこともなくなっている。今現在は生保の身なので購入できないということもあるが、もしお金があっても古い物を処分して似たような服を買い足すだけくらいになれたのは、数年かけて意識的なアプローチを行ったからだ。そのお陰で、今の私がある。
 普段着は、ある程度の年齢になると、親と一緒に買い物に行き自分で選んでいたが、下着は母が選び購入くれていた。それが当たり前で育った。綿100%のグンゼの白いパンツと肌着だ。小学校の修学旅行の時は周囲の子たちの下着のことなんて、そんなに気にならなかったのだが、その後に、下着のことで同級生の陰口を聞き、すごく恥ずかしい思いをしてとても複雑な気持ちになり傷ついたことがあった。
 その当時は、同級生の子たちが何故そんなことで人の悪口をいうのか、意味が全くわからなかった。でも、今の私ならその意味はわかる。そして、母がなぜ、下着はグンゼにしていたのかもわかった。
 修学旅行以外にも学校の宿泊学習や部活の遠征などで外泊することもあったからなのか、私の下着のことで盛り上がっていた同級生の子たちからすれば、私が毎日着用している下着が異様に感じたのだろうと思う。
 ある程度の年齢になれば、親と買い物にいっても、自分で好きな下着を選ぶということがうちの場合には出来ていなかった。そういったことが、同級生の子たちには不思議に感じただろうし、可愛らしいカタチや柄の下着までこだわって自分で選んでいただろうと思う。それは女子に限らず男子にとっても同じで、成長過程の当たり前のことだったのだろうと思う。同級生の気持ちを私もわかっていなかっただけだった。当時の着ている下着は、お腹やおしりがすっぽり隠れる白い下着ではなく、柄が可愛かったり色が可愛かったりするおしゃれなタイプの下着だった。 ただ、私はそれらが良いとも思えなかったのに、みんなに合わせることのほうが良いと思うようになった。というより、母に恥をかかされたというような思いと、みんなと違うことがとても恥ずかしかった。だからといって、母に言い出せない自分もはがゆかった。 そんな青い時代を過ごす中で、一度思い切って『なぜ、グンゼの下着』なのか母に聞いてみたことがある。ハッキリとは覚えていないが、おしゃれな下着にしないのは、〝肌のためだ〟というようなことを言われたような気がするが、この当時は母がいわんとする意味が全くといっていいほどわからなかった。 それでも、私が大人になりファッション雑誌を読むようになり、なぜ母がそんなことをいったのかはわかることになった。むしろ、おしゃれな下着のほうがおっぱいのカタチもお尻のカタチも崩れてしまうし、冷えやすい。だからこそ、カタチはおしゃれにはみえなくても身体にとって、グンゼの綿100%白パンツと肌着はシャレオツではなくても、身体や体型のためには良かったのだ。 そのことがわかってからは、下着のトラウマは自虐ネタのようなものになり笑って話せるようになった。
 自分がそういった経験があるからこそ、子どもの服や持ち物に対しても気をつかうようになった。ただ、息子の運動靴のことで、お兄ちゃんになったのに〝アディダス〟や〝ナイキ〟ではなく、〝駿足〟なのは恥ずかしいよ的なことを本気で教えてくださる保護者もいらっしゃったときには、目が丸くなった。
〝駿足〟の何が悪いんだ。なぜ、足のためを思ってその靴を選び履かせていいるのに…。誰かのために、靴を選んでいるわけじゃない。ただ、自分もそういう経験があるので、その頃から、息子の年代に合わせた服装を考えたり、息子の好みも気にするようにはなった。なので、ある意味、その方にはこの記事を通してお礼を言っておこうと思う。お陰様で、年齢を考えて息子の身の回りの物を選べるようになりました!と…。なので、最近は息子の服や身の回りの物を買う時は息子も連れ出して、自分で選ばせるようにしている。
 ただ、私は思う、大抵の人はなぜ、みんな流行を追い同じファッションをすることを好むのだろう…。確かにダサい格好だなーと思う人もいるが、だってその人はその服がいいからそれを選んだんだ。それに、ブランドものだからといって、カッコよく着こなせていない人だっている。なぜ、人は自分の価値を基準にして心の物差しで決めつけるのだろう。
 その人にはその人にとって大切にしてることや、意味があるかもしれないのに…。そんなことを思う。「価値観の違い」は「違い」であって、ジャッジでは計り知れないことだ。それが個性でもあると思う。みんなと同じ格好にすることを遠回しに要求するのは同調圧力でもあると思うし、個性的に自分を見せたい人程、誰かと同じ価値基準の中で生きているんじゃないかと思う。誰かと比べるより、自身の中の大切なことを見失わないことをよほど大切にしたほうがいいように思ったりするのだが、如何せん人は似て非なることが安心なのかもしれないなんて思ったりもする。
 
身体の発達とチグハグなメンタル
 下着の話から派生した話になる別な話になるが、2次成長期は心理面の発達だけじゃなく、見えている部分がどんどん変化しはじめる時期でもある。女子の場合、胸が早めに大きくなってる子たちは、親や保健の先生たちから『スポーツブラの着用せよ』的な一声がかかっていた。
 現在の私は身体が全体的に小さめだが、当時は割と大き目で身体の発達は早いほうだった。生理も同級生の中で一番早くきたのは公式では5年生の冬になるが、非公式ではおそらく5年生になった頃には始まっていたと思う。 ただ、毎日あったわけでもなく、血とはいえない不正出血のようなものがおパンツについていて〝ぎょっ〟としたけれど、1日程度で終わったし、ダラダラと流れ落ちるほどでもなかった程度に終わったからだ。そして、その時は、自分に生理の前触れのような知識がなかったからか、それとも、すでに女子だけ集められた生理の話を知っていたからか、一番早く自分に生理が始まったことに〝びっくりした〟からなのか…。自分で気がついた時、母には何もいわずにいた。というか、いえなかった。ただ、下着が汚れていたのを発見した母に、『生理がはじまったのではないか?』ということをいわれたが、私はその時、その場を誤魔化し無視をした。自分でもなぜだか、わからないのだが、なんだか気まずかったのだ。というか、トイレで気がついた時に怖くて怖くてたまらなかったことだけは覚えている(苦笑)そして、その後、数か月後に同じようなことがあり、再度、母に多分生理がはじまったんだよと言われたのだが、2回目もそれを認めることができずにいたような気がする。 結果的には、生理の色が血の色になって量が多くなって初めて、やっと認められたのが小学校5年生の冬だったのだ。ということで、公式発表としては小5の冬ということとなる。というか、なぜ、私が一番なの???という不思議な気持ちでいっぱいで、とてもショックをうけただけでちっとも嬉しいと思えなかった。でも、世間的には喜ばしいことで、母がお赤飯を炊いてくれたりしたが、私はちっとも嬉しくなかった。だからなのか、赤飯は苦手だ。あっ!そうか、だから苦手なのかもしれない。まぢか。私。どんだけナイーブだったんだ…。
 その時の記憶はショックだったせいもあるのか、記憶があまり鮮明ではないのだが、ショックだったことだけはしっかり覚えている。幼少期に事故や怪我の体験をしたことで、スプラッタな光景が苦手だったというのもあると思う。その当時の自分は、幼少期のネガティブな出来事を何も思ってないと思っていたのだが、実は、そういった過去の体験が〝トラウマ〟になっていたからスプラッタな光景が怖かったというのもあるのかもしれない。っていうか、これを綴りながら気がついた。ただ、確かにトラウマ治療はあったに越したことはないが、無理に引っ張り出すより、こうして紐解いたほうが本人にとっては楽に癒されていくものなのかもしれないなんて思う。というか、まさかトラウマになっていた原因が幼児期に体験していたことが原因だとするならものすごく腑に落ちる。
 昨今は生理も低年齢でくるお子さんもいるということで、低学年の頃から学校で性教育が始まったような話も聞くが、実際はどうなのだろうか? 我が家は一人息子だし、障害があり重度域なので、性教育は必要ないと思われがちだが、一般的な子どもたちと違ったカタチで支援学校で性教育をしてもらっていた。そのお陰もあり、自分が男子であることはしっかりわかっている。ただ、しっかり入りすぎてしまったことで、病院やトイレ介助又はお風呂の介助などは、同性の人でないと診察も介助も難しい時期があった。それは、一時期続いたのだが、再度一つ屋根の下で暮らすようになり、歯科受診などを通して、異性の先生や衛生師さん又は看護師さんでもできるようになった。その件については、息子と共に過ごすようになってからの章で詳細を綴りたいとおもっている。
 息子は重度域の障害があるが、一般の子どもたちとは時期が遅れてでも性教育を授業の中でとりいれていただいたことはすごく助かった。なので、健常のお子さんや障害があっても知的な遅れがなかったり、軽度域のお子さんの場合には、早い時期からゆるっとでも性教育をしていくことは大切なことだと思う。
 学校の勉強ばかりではなく、身体的な教育も立派な教育だと思うし、自分自身の身体だからのことだからだ。そして、性教育は特に低学年の頃からゆるっとでも、男女の身体発達の違いやプライベートゾーンのこと、そして、ボディタッチについてなどの話は、知識として知っておいたほうが良いと思う、何故なら、そういったことが軽犯罪を防ぐことにもなるように思うし、幼少期から年齢に応じた適切な性教育を行っていくことに意味はあるし必要だと思う。なぜなら、そういった教育ほど、親次第になってしまうことが一番大きいからだ。そして、そういった教育が自己防衛にも繋がるように思うからだ。
 私の場合になるが、母がわりと早めに気がついていたのに、私は母に自らからたずねることができず、むしろ何もいえなかった。女に生まれたら身体が発達することで、生物学上女性に生れたならば初潮は当たり前に訪れるものだという知識があるかないかで、その子の予後が変わるだろうと思う。それに加え、もし初潮が起きた時、誰に相談してもいいのかということを事前に知っておくことは大切なことのように思う。
 小さな頃から、自分の身体について知ることが他者との違いを知ることにもなり、異性との違いや性的指向についてなども、善悪ではなく、子どもから大人にむかって身体も心も発達していく過程の現在地を知り、その後起こってくることは、問題でもなく当たり前のことなんだといった知識を知っているか知らないで、勘違いした〝罪悪感〟を握りしめつづけることもなくなるし、人との関係性も随分変わるだろうなぁと思うからだ。
 とにもかくにも、私は小学校高学年の頃には、情緒といえばいいのだろうか?社会性を含むメンタルの部分では、同級生の子たちから少し遅れていたように思うし、そういった面でもついて行けてなかったのだと思う。幼児期からお世話になっていた親戚に年上の姉がいたことで、教えてもらってたこともあったかもしれないのだが、性的な話は質問したことがないような気がする。ほとんど記憶がない。もしかしたら、あまり気にしていなかったからあえて聞いたことがなかったのかもしれない。それくらい鈍感でもあったからなのかもしれない。
 今その当時を振り返ると、身体は大人になっていくのにたいし、心理面では幼児期のままのようなチグハグな発達具合だったと思うと、発達障害の特性がこのようなところからも垣間見える気もするが、こういった私のエピソードと似たような経験を持っていたとしても、発達障害であるかどうかはわからないので、自己診断のベースにはしないでいただきたいことは、ここでも述べておく。そういった心理面は発達障害の特性ともいえず、家庭環境に左右されることが大きいと思うので、再度ここでも、自己診断のベースにしないことは付け加えておきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?