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#014_ざざっと成育歴②之壱

〔思春期から青年期までの変〕

青々と茂る季節の迷路

 はぁあああーーっ。ため息のような全集中する前の深呼吸のような…。今そんな気持ちでこの章を綴り始めた。 まだ綴り始めたばかりなのに、なんとなく気が重いし薄気味悪い感否めない。それくらい、思春期から青年期までの時期は、今考えればどーでもいいようなことで苦しみもがいていた。
 自身が元々から持っていた〝主体性〟を失くしたというよりも、一旦閉じ込めただけにすぎず、自身の中で渦巻くネガティブな部分を認められないまま、それらはなかったこととして脳内につくったネガティブな箱に仕舞い、人前では何も考えていない天真爛漫で天然な私を演じているような日々を送ることになった。
 弱い部分を隠すような鎧を纏ってみたり、発達の凹の部分を失くすような努力や自分自身を言い聞かせる言葉を探してみたり…。周囲の評価やダメな自分ばかりに囚われてしまい、自分好きだったところでさえ見失うことになってしまった。自分なりにいろんなことをやってはみたけれど、言葉にならない自身のモヤモヤの正体を閉じ込め、何重にも鍵をしてしまうことは〝開き直る〟という技を知ったところで、自身にとって障壁となってしまうだけとなっていく。
 家族だけの村社会から一歩外へ出た学校生活を送る年齢になると、様々な家庭環境で育った同級生や周囲の人たちとの関係性により、私自身の自我がより良く磨かれることにはならず、付け足すような自分磨きが私の元々もっていた資質を枯れさせることとなってしまった。しかも、自我は枯れることなくどこかの時期で冷凍保存されたまま思春期から青年期を過ごしてしまったことが、親元を離れ自立していく青年期から成人期の時期に負の連鎖の足掛かりになってしまったように思う。
 それに加え、どこかで穴が空いてしまった部分をその場しのぎで治めることはできていても、積み重ねてしまった分その代償は大きかった。だからといって、全ての思い出がネガティブなことばかりだったわけでもなく、ほろ苦い恋の思い出やその当時の仲良かった友だちとの他愛のない時間や学校生活の中で、幼い頃から勘違いしていたことやわからなかった物事のアレコレが解決されたりしたこともあったし、楽しい時間を過ごしたことも私という人格のスパイスになってくれている。ただ、そんな時代にしか味わえない良い思い出さえもネガティブな思い出のように感じてしまうようになったのは、私自身が病んでいたに過ぎなかったからだと40歳を過ぎてやっと気がついたのだった。
 そんな思春期突入から青年期までの私が私でなくなっていく過程をこの章で綴っていこうと思う。うあー嫌だ。やっぱ嫌だ。あああああああああああ。でも、でも、このゲートをくぐらないと次に進めないからもう綴るんだ。なんとしてでも…。

闇落ちへの入口
 バブルの時代に私は10歳の壁といわれる時期だった。その時代までは、自分が自分でいられたような気がする。幼児期の頃の記憶よりも、色も内容も鮮明なのはこの時期からのような気がする。
 当時から記憶している映像は、両目がカメラになっていて録画しているような映像が多く、時折、自分自身を含めた〝俯瞰〟したような状況の映像も残っている。それと、忘れてもよさそうなどうでもいい記憶でもあると思うのだが、当時眠っている時にみていた印象深い夢も未だにいくつか覚えているが、考えてみるとその当時はトラウマになるくらいの怖い内容だったから忘れられないだけなのかもしれない。
 小学4年生の頃までは、人間関係よりも自身の学力のなさや言葉の意味がなかなか飲み込めないことから派生する不具合を自身では負担に感じていたことのほうが大きかったような気がする。
 人よりも出来ない自分やダメな自分にフォーカスしてしまう癖がこの当時からついてしまったようにも思う。両親は全く褒めない親ではなかったが、どちらかといえば褒めるのが下手だったので、両親以外の大人に褒められることが嬉しく、いい子な自分を育くむにいたったのかもしれない。千と千尋の神隠しのカオナシのように…。
 小学4年生までの担任との折り合いは悪くはなかったが、小1の頃の担任の算数の教え方が私には合わなかったようで、持ち帰った宿題をしていてわからない時は、数学の得意な母によく教えてもらっていた。
 簡単な計算はできていたし九九の暗記はすぐ覚えられたのだが、繰り上げや繰り下がりの計算はとても苦手だった。なので、桁が増えていくたびに更に難しく感じていた。おそらく暗算が苦手だったからだとも思う。というか、暗算は大人になった今でも苦手だ(苦笑)
 13年前に発達障害の診断の為『WISC-Ⅲ』という検査を受けたことがある。その検査でわかったことになるが、全体的に凸凹の差はなく言語性IQと動作性IQの差もあまりなかった。その当時は35歳頃になるが、年齢が上がるにつれ同じ点数でもIQの値は変わってしまうらしい。ただ、その当時の私は、うつ病が発生していたものの抗精神薬の薬の服用はまだしてなかった時期だったし、今現在よりも当時のほうが忘れる頻度は高かった。もしかしたら、現在のほうが脳みその回転率が良くなったりもしているで、当時よりも現在のほうがIQのバラツキや点数は高くなっているかもしれないなとも思う。
 それは、ここ数年で〝言葉の意味〟が解るようになっただけでなく、与えられた〝課題〟又は〝問題〟が何をいわんとしているのだろうということをより汲み取れるようになったからだと思う。
 その後、2次障害の〝うつ病〟が発覚し、抗精神薬を飲み始めたのだが、ADHDという診断がおりたからといって、ADHDの対処的な薬剤(リタリン又はコンサータ等)の服用はしていないし、現在までも飲んだことがない。あっまた、話しがズレてしまっているし薬剤のことは、後の章で触れるので、この話はこれまでにしておく。
 IQのバラツキは少なく動作性優位で、数学の分野だけが他の分野よりも少し劣っており境界域だったことが解った。そのことが解っただけでも、小学校の頃から算数がとても苦手で、学校の先生や母から教えてもらったり、自身で努力をしても自信が満足するような成果は上がらなかったことが腑に落ちた。 それと、時代と共に様々なことが発達したことで、私の劣っている部分を補ってくれる機器(計算機やPC等)が産み出されたことから、自身の苦手なことを克服できなくても、道具などで補うことで人並みに追いつけることもわかったのは心強く収穫だった。その反面、完璧主義な自分を知るきっかけにもなり、完璧主義な自分と今後どう付き合っていけばいいのかは、先延ばし案件となった。というより、そんな自分が自信を苦しめていることに気がついたのは、診断を受け10年経った頃だったように思う。
 診断後の結果を初代主治医と心理士の先生二人から説明を受けている中で、数学の分野が境界域でも〝電卓が計算してくれるからいいじゃない〟的なアドバイスは、数字に弱い自分を肯定されたというより、そんな自分でも〝大丈夫〟なんだといった気持ちになれた。そういった経験が知的障害が重度域の息子にも生かされることとなった。
 実は余談になるが、長いお休みの時実家で過ごしている中で、私の母(息子にとって祖母)がチラシの裏紙に足し算の問題を書いた式を電卓で計算しその答えを書き写すという一連の作業を、一度お手本をみせ、やらせてみたところ出来たのだ。
 ただ、問題数が多くなると途端に集中力が途切れ始める。筆記することで疲れたり、それらが出来たからといってずっと嬉しいわけでもない。ある程度の問題数を決めて解かせる分には負担がかかりにくいようだが、できたからあと少しと問題を増やしていくと脳みそが疲れてしまうのか、イライラしはじめる。そういったこともあるので、自宅では無理には行っていない。そういった作業が自分で楽しいと思えるようになれば、息子は自らやりたがる子なので無理にはやらせていない。やはり、本人が苦手とする分野を無理してでもやらせることで、新しい神経回路はできるのかもしれないのだが、それらが〝負荷〟となり、知識として理解しづらいタイプの息子の場合には、逆に負担になってしまうのかもしれないなと思ったりする。
 人の身体は不思議なもので、悪い部分を良くしようとしてそれらに働きかけた場合、元の自分に戻そうとする〝働き〟があるらしい。そんな〝働き〟が発達障害の人たちに現れる2次障害といわれるものなのじゃないかと私は思うことがある。それは、自分も同じような身体的な感覚を感じるからでもある。
 私の場合になるが、運動をすると脳みそがじわじわすることがある。例えば、卓球をすると小脳辺りがじわじわしたり、脳みそに鳥肌がたっている感覚を感じることもある。 脳にとって〝快・不快〟どちらも関係なく神経が揺さぶられたり新しい回路ができている時に、そういった状況が脳内で起こっているのかもしれないといった仮設をすると、それらは、脳にとって良いことかもしれないけれども、本人にとってはみえない不快感として感じてしまうだけになってしまうのではないのだろうかと思うに至っている。いや、実際、私はそれを体感し〝不快〟とはいわないまでも、脳みそのどこかの部位がじわじわとすることがあるからでもある。そういった時の自身の脳にどういった反応が起きているのかf-MRIとかで一度診てもらいたいくらいだ。それが、解ることで不快ではあるけれど、脳みそのなんらかの機能が活性化されているのか不具合を感じているかがわかることで、私自身にとって〝安全〟なのか〝危険〟なのかがわかれば、なんとなく不快な感じがしてもそれらを意識的に大丈夫だといった3文字の言葉がプラセボ効果となってそのうち、不快に感じていたことが可でも不可でもない状況になったりするんじゃないかと思うからだ。ただ、それが逆に真逆の作用となり〝快〟の状態になった場合、自己抑制が効かず依存してしまうこともあるかもしれない。 個人的な見解にすぎないが〝快・不快〟どちらも『すぎて』しまってもオートで調整がしづらい体質な人たちが、発達障害や精神障害を持つ人たちでもあると思われるので、意識的に自己抑制の〝アクセル〟と〝ブレーキ〟の調整をすることで、大きくブレるていた振れ幅も少しずつマイルドになっていく手掛かりになるのではないかと思ったりする。ただ、そういった意識から無意識下へ働きかけは、知的な遅れがなく、そういったプラセボ効果など身体のメカニズムの仕組みを使い、信じてやってみようと思える一部の人たちに限定された方法にはなると思う。それと、無意識下で行われている身体的な機能の調整に不具合を持っているタイプだからこそ、自己改革を行う場合には、意識から無意識の世界へ働きかけることも大切なことなのではないかと思い、私は身体的なアプローチだけではなく意識(大脳)への働きかけも実は大切なのだと昨今思うようになった。どちらか片方側からのアプローチでも上手くいくことはあるが、意識的に〝抑制〟されてしまった期間が長ければ長いほど、自分にあってなかっただろう〝抑制〟は自身を蝕むだけになっているので、一度その状況から解き放たれることが必要で、そういったことが〝ゲシュタルトの崩壊〟ということでもあり、それが起きて初めて、元々の自身を取り戻せる最初の一歩になるのではないかと思ったりする。というか、私はそういうことで、強引ではあったが一か八かのマイレボリューションを行い変体してしまったのだ(苦笑)身体的な不具合はまだ起きてはいるが、メンタル面ではかなり強化され、今の自分をすごく気に入っている。
 ただ、私の場合には、知的な遅れがないし自身が腑に落ちるまで、それらを解明したいといった思いがあるからこそ、身体的に起きている不具合の理由がわかることで、社会生活を送るにあたってみんなと同じような生き方や暮らしができない自身を納得させられることがたくさんあるからでもある。だから、周囲の人たちからすれば、無駄な動きをしているメンドクサイ人認定されてしまうことにもなっていると思われるのだが、自己改革前の私なら周囲の人たちからの冷ややかな目線も気になっていたが、改革後の私は全く気にならなくなったくらいなので、人は変わることはできるのだなぁと思う。ただ、人はなかなか変われないと言う人たちもいらっしゃるが、変われない人は変わらないという世界を選んだだけだろうし、そういったニュアンスのことを自分が言われたら、(ああ、あなた様にとって私の変化がわからないということは、私のことを何もわかっていなかったということですね。了解です。でもちょっと残念death。)といった意地悪な心の声が浮かんでくるのでここに吐き出しとかなきゃだわ。
 かくかくしかじか、ということで、上辺だけの情報では納得できなかった事柄をより深く考察したり、また、考察された知識や情報で納得できるタイプでもあることから、一般的にはそこまで知らなくてもいい知識や情報があることで、私のようなタイプの場合には、納得できてしまう自分をここ数年で思い知っている。
 おそらく、幼少期の時代に不思議に思ったことは、両親を含めた周囲の大人に聞いていただろうと思うのだが、おそらく、その当時の私にわかるような言葉できちんと答えてもらえてないことのほうが多かっただろうと思う。そして、私が〝いわん〟とすることを察していた人もいなかったのかもしれない。それか、そんな私を〝察して〟いても、打ち消されてしまったこともあっただろうし、鈍感で天然だったからこそ、めんどくさくてスルーされてしまったのかもしれない。ただ、どういったことでスルーされてきたのかまでは覚えてはいないが、適度にスルーされたり、その時々の適当な言葉でその場しのぎの答えで誤魔化されてしまっていたことを肌身で感じており、なんとなく題名のない不足感が積読化されてしまうことにもなってしまったのではななかろうか?と思ったりもする。そして、前述のようなことが『未消化の感情』というものに当てはまるのではないかとも思う。
 これは、推測になるのだが、幼児期の私の理解力が少し頓珍漢だったこともあり幼児期にある〝ナンデドウチテ〟の期間が人より長かった気もする。というか、47歳になった今現在でさえそれは続いている。それは、幼児期の〝発達のヌケ〟とやらをやり切らなかったと思っていた時期もあったが、実はそれだけでもなく、自分なりに腑に落ちる言葉や意味付けをすることが自己の感情の抑制や処理をする時の謎解きにもなりうるタイプだから〝ナンデドウチテ〟な時期が未だに続いているのだろうと思うっていうか、知的な発達は本人が欲するがまま発達すると思っているので、続いているのは発達のヌケでもなんでもなく、私個体特有の脳だからこそなんじゃないのだろうか思う。そして、それらが、自身の人生に限らず、様々なことを〝クリエイト〟する熱量にもなっているように思う。つまり〝考える〟ことに終わりはなく、それは私という個体の通常運転だからこそ、頭の中が常に忙しく、源泉かけ流しのように言葉や映像が降り続けてしまうのかもしれない。そして、様々なことを説明する時に話が長くなってしまうようになったのは、全てを聞いてもらわないと私が何をいわんとするのかを〝察して〟もらえないという経験をたくさんしているからでもある。
 たった一つの一文でもルールが守れる人と守れない人がいる。それは、様々な物事を通してわかってはいたが、現在起きている『コロナ禍』で世界中の誰しもが考えさせられることになっているように思うのだが、どうだろう? 現在の自分は、鈍感な部分は変わってはいないが〝察する〟ことは人一倍感じられるようになっている。というか、察しすぎてしまっている。それでも、思春期の入口に差し掛かる小学校4年生の時期との共通点は『鈍感』なところは変わっていない。ただ、今のように『考える』タイプの子どもではなかったのだった。だからこそ、私が私でいられたのだと思う。

いざ!思春期へ突入
 小さな田舎町だったがその当時までは、分校があった。保育園幼稚園と年齢があがるにつれ同級生が増え、小学校へ上がるころには、数キロ離れた部落の同級生が存在し、その当時は一年生は分校へ通学し2年生になると、本校へ通学することになっていた。一年生の時は行事に合わせて分校の同級生とも勉強したり、逆に分校へ行くなどして交流をしていたが、小学2年生になると毎日同じ教室で過ごすようになる。それくらいの頃からイジメのようなことは起きていたが、それでもまだクラスのみんなと仲良く学校生活を送れていたように思う。でも、学年があがっていくにつれ、女子はいくつかのグループに分かれたりしはじめたり、クラスで仲間外れも始まった。そのターゲットになった人が男女関係なく順番に入れ替わり、私も一時的に仲間外れになったことがある。それでも、担任の先生がうまくバランスをとってくれていたのか、まだ、低学年でもあったからなのか、ケンカしたり何かでもめても時が過ぎれば何事もなかったように過ごせていた。そんな時期は、4年生の時期までだったように思うが、何分私は鈍感だったので、実は私が思っているより低学年の頃からすでにグループができていて、本当は仲は良くなかったのかもしれない。
 高学年になる前の3年・4年生2年間の担任はミニバスケの監督も兼任だった。K先生は厳しい面もあったけれど、楽しかった思い出のほうが多い。その時期から、ハッキリと自分の中で線引きされた感覚が残っている。そういった感覚が一体何なのかは、自分でもちょっとわからないが、ぼんやりとでも自分という個体をハッキリ認識できるようになった時期だったのかもしれない。それまでの私は、基本的にのほほんとしていたし、ぼんやりした感情しか記憶にないからでもある。
 4年生の後半になると部活が始まった。部活は一択しかなく男子は夏は〝ソフトボール〟冬は〝サッカー〟女子は〝ミニバスケット〟のみ。学校から帰ると遊んでいた生活から、放課後は部活をして自宅に戻る生活となり、休みの日以外は、遊ぶことが少なくなった。それでも、4年生の頃までは基礎練習ばかりだったし、決して楽ではなかったがミニバスケが好きだったし楽しかった。母が高校時代バスケットボールのポインタガードだったこともあったからか、母にシュートの仕方を教えてもらったこともあったし、部活の練習に母が参加したこともある(笑)。
 私は小学生まで身体が大きいほうだったこともあるのと、少人数の学校だったこともあり、5年生にあがると高学年の人に交じり選抜メンバーに選ばれ試合に出ていた。これは、私の身体能力が高いということではなく、人数が少なかったからであって、5年生の中でも身体が大きくそれなりにバスケットができたから選ばれただけの話だ。もし、もっと大きな学校だったら、私は選手に選ばれることもなく補欠だっただろうなぁと思う。というか、ミニバスケットをしたかどうかさえわからない。ポジションは、大好きな漫画『スラムダンク』でいう、桜木花道や赤木主将の位置。それでも、走るのがあまり早くなかったので、速攻の時は気持ちとは裏腹で足が回らず往生していたことを覚えている。スリーポイントシュートとかはミニバスケにはなかったがゴール下のシュートやドリブルシュートが懐かしい。あの当時に「スラムダンク」があったら、単純な私だからもっと練習を頑張れたかもしれない。あっそうだ!リボンの漫画でバスケットの漫画が連載されてたんだけどなぁ。ただ、どちらかといえば恋愛系だったからモチベーションは向上されたとしても、バスケット選手になりたいといった夢にはいたらなかったようにも思う。それと、一応自分なりに、身体が大きいから選ばれているだけで、母の才能を受け継いでないという自覚があったから、現在の自分とは違い、突き詰めるような努力はしなかっただけかもしれない。
 部活が始まったことで、同級生の女子とも上手く付き合うことができなかったのに加え、高学年の女子の先輩や後輩との交流が増えてしまったことも、人の間でうまく立ち回ることができない私の足枷となった。楽しいはずの出来事も人間関係の歪があることで楽しくなくなってしまうことを味わい始めたのもこの時期からだったように思う。それでも、4年生の頃まではいろいな事がありながらでもまだよかった。
 高学年になると学校長が変わった。学校長が変わったことで、それまでの学校生活でゆるゆるだった校則がすごく厳しくなっていく。そして、初めの頃は何も思わなかった担任もドンドン嫌いになっていった。それに加え、同級生や上級生下級生との人間関係やそれまでにうっすら気がついていた〝人との価値観〟の違いを顕著に感じはじめた頃になる。
 学校長が変わったことで、低学年から結構楽しみにしていた行事がなくなってしまった。その当時はそれが一体どういった意味なのかわからなかったが、今の私ならわかる。
 学校長が変わっただけで学校全体の校風まで変わってしまうことを思春期の頃に体験してしまったことが私の主体性を失くしてしまうきっかけでもあったと思う。友だちをあだ名で呼ばず、さんや君付けで呼ぶこととなったり、外で遊んでいる時に買い食いや立ち食い禁止やラジオ体操や運動会の行進なども、真面目に取り組むことが望まれた。それまでは、とりあえずカタチだけ出来ていればよかったラジオ体操も、マスゲームのように頭の先から指の先まで神経を研ぎ澄まし、低学年から高学年まで、乱れることなく全員揃って行進したり、ラジオ体操をするようなスタイルに変わった。今思えば軍隊のようだった。私立の体育学校ではなく、田舎にある一般の県立の小学校だったのに…。それまではゆるっとしたのんびりした校風が、学校長が変わったことで一変し、それまでは良かったことも禁止事項として変わっていった。
 確かに田舎だからこそ、幼い頃から厳しくしないと社会では通用できない人柄に育つことになるとは思う。その時代があったから、私は根が真面目な自分の後押しもしてくれたこともある。ただ、人は誰しも矛盾しているからこそ、私は自己矛盾に苦しむことにもなったように思う。要は、真面目な自分と自由を求める自分を折り合うことが出来づらいままで、元々周囲の評価を気にするタイプの私が、更に、周囲の評価を気するようになっていくことになったのはこのことも要因の一つだと思われる。

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