見出し画像

#011_ざざっと成育歴①の参

〔生まれてから思春期までの私のこと〕

記録のような記憶☞続きまして…

 はてさて、続きましてな『記録のような記録』は〝ぷっくすっ〟となるようなほのぼの系なお話をもってこの章を締めくくれたらいいなと思う。
 ネガティブな記憶になるかもしれないが、自閉圏の中では、尊大型(積極奇異タイプ)だったからなのか、性格が好奇心旺盛な天然系だったったからなのか…まぁ、どちらでもよいのだが、そういった気質を持っていたことでのネタもいくつかあるので、紹介しときたいと思う。

悔しくてギャン泣き
 私は大人になった今でも負けず嫌いだ。それを活かすことで好きなことなら、自分が納得するまでトコトンやり続けられることもある。で、ある程度できるようになると満足する。その特性を活かして、これまでは〝できなかった〟ことを習慣化させることができた事柄もある。勿論まだまだ出来てないこともある。それが一番活かされたのは生活習慣だ。(このことを含めた自助努力などについては、後の章〝養生生活編〟で綴りたいと思っているのでしばしお待ちを…。)
 ある程度の大人になるまで、その負けず嫌いな性格はネガティブなことで活かされていた。
 幼児期の場合には、近所の親戚の兄や姉とトランプ等で遊んだりする時に負けるのがわかると途中で場を崩したりしてギャン泣きしていた(笑) そして怒られていた。親戚の兄や姉にあきれられたり怒られたりしても、それでも仲間にいれてもらっていた。超絶めんどくさかっただろうに、ありがたい話だなぁと思う。『しょうがない千晴だけん』ですましてくれてたんだろうなぁ。とにかく、1つ下の弟に全敗するくらい、トランプやオセロは特に弱かった。
 ギャン泣きする時はカードゲームの時だけではなく、何か問題が起きるとパニックになってしまい泣いていたようだ。今現在は、お化けや妖怪が視えても怖くはないが、昔は背中が無くなる感じがするくらい怖かった。だからホラー映画なんてみれなかったくらいだ。
 それでも、興味関心に負けて、恐る恐る見たい時はあった。そういった時は、必ず背中を壁につけるか毛布にくるまったりしてみていた。お化け屋敷のお化けは人間だとわかっていたが、ジェットコースターの次に怖かった。今ではお化けはビックリすることはあっても全く怖くもなんともない。ヒト類ヒト科のほうがよっぽど怖い。
 後は大きな音が苦手で、打ち上げ花火の音で私は泣いていたらしい。打ち上げ花火の音が苦手だったことは覚えているが、泣いていたことは覚えておらず、下の弟が『姉ちゃんよー泣きよったもんね』と教えてもらったことがある。(このことは、自身の持って生まれた〝特性〟の章で詳細は綴りたいと思う)
 大人になった今(といっても30歳をすぎてから)は、耳栓をすれば打ち上げ花火を近くで眺めることもできるようになったのだけれども、大きな音は苦手ではある。
 これらだけに留まらず、近所の人たちさえ知っているくらい、私は本当に良く泣いていた。それは自分でも覚えている。悔しさや歯がゆさが極まり言葉にならない思いでいっぱいになると泣くことで解消していたのだろうと思う。それが、発達障害圏内でよく聞かれる〝パニック〟でもあったのだろうと思う。私の場合には、泣くことでイライラやモヤモヤしている思いを昇華させていたことになっていたのだろうとも思う。だから、そういった自分も嫌いだった。だからもっと〝強くなりたい〟と思っていたこともある。
 親や大人からすれば、子どもが泣くのは困るだろうしイライラすると思う。私も保護者であるし身体の状態によっては息子の声にイライラすることもあるからそれはわかる。 ただ、子どもは大人と違い、この世に生まれて間もないのだ。経験だって少ない。自身を解消させる術も知らない。そして、言葉の獲得は環境で大きく左右されてしまうことを大人がわかっていない人が多い。だからといって〝言葉〟は頭に詰め込むものでもない。体験を通し体感することで頭から体幹を通して肚に落ちるような獲得をすることが、その人を豊かにしてくれるのだろうと思う。子どもを育てたことをある人はご存じだと思うが〝たくさん声掛けしましょう〟と言われるのは、そういった意味もあるのだと思う。
 ただ、発達障害を持つ子どもの場合、その情報が過多になることで混乱が生じてしまう場合もある。だからといって、全く声掛けをしないほうが良いということではない。 声かけする時の声のボリュームや音域又は発音の仕方等で、実際〝聞こえている〟けれど〝聞こえていない〟状況に陥っている場合もあるようなのだ。〝空耳〟という言葉があるくらいなのだから、障害の有無に限らず〝話し言葉〟の聞こえ方がきちんと受信できていないこととなっており、言語域が発達しづらいことになっているのではないのだろうか? と思うのだが、それは、発語することがなかった時期の息子と過ごした日々とその後、発語するようになり、ゆっくりではあるが言語の発達をしている息子との日々を過ごしているので強くそう思うようになった。だからこそ、泣くことでしか表現できない子どもは、たくさん泣かせてあげてほしい。うるさいなら、大人が耳栓をすればいい。そんな時は、ゆっくり背中をさすったり、ぽんぽんしながら泣き止むまで待ってあげてほしいのだ。そして、泣き止んだ時に何が悔しかったのか、何が悲しかったのか理由を聞いてあげてほしい。そして、泣くことで何かを獲得しようとすることを学んでしまっている子だと大人が勘違いしている場合、もしできることならその要求に答えてあげてほしい。そして、その子の要求に応えることが出来ない場合には、できない理由を〝きちんと伝える〟ことだと思う。
 一番最悪なのが、大人の都合に合わせ〝物〟を与えたり、何かを〝餌〟にして、子どもの行動を止めることだ。そういった大人の自己都合での関わり方が、その子にとっても、親子又はそれ以外の様々な関係性のネガティブな循環となっていくように思う。
 だからこそ、幼児期にそれらを解消させておくことが望ましいと思うのは、息子が青年期に入った今だからこそヒシヒシと感じる。 宥めるという行為は大人の自己都合であってはならない。そういった駆け引きのようなことを小さな子どもの頃から学ぶことになってしまい、駆け引きのようなコミュニケーションが後に〝負の連鎖〟を招いてしまう要因になっているように思う。そういったことが〝恋愛〟の場面において活かされてしまうと厄介だ。そして、それらが〝依存・共依存〟の根源でもあるように思っているが、私は専門家でもないので、個人的見解という言葉で締めくくっておきたい。
 
保育園の歴史を塗り替えてしまった件
 私は1歳代から保育園に通っていた。その保育園の〝豆まきの歴史〟を変えてしまったことがある。そして、私がそのことを知ることになったのは、近所に住む親戚の子が同じ保育園に通所し始めたことで発覚したのだった(笑)
 何歳の頃だったかはちょっと忘れてしまったのだが、まだ家の近所に診療所があった頃だったので幼児期になる。3歳代だっただろうか、私以外にも同い年の子が保育園に通うようになり、その当時、同い年で一番仲良かったCちゃんとよく遊んでいた。
 歴史を塗り替えることになった当日は節分だった。園で〝豆まき〟が行われ、その当時まで使われていた豆は大豆だった。豆がまかれたままの教室でCちゃんと2人で遊んでいた時、私は何を思ったのか、落ちている大豆を鼻の穴に詰め〝鼻てっぽう〟で豆を飛ばしてみた。Cちゃんの名誉のためにもいっておくがその行為を行ったのはもちろん私だけだ。(Cちゃんは私と違って賢くてかわいこちゃんだったのでそんなことはしない。)
 大豆を鼻の穴にいれ〝鼻でっぽう〟で豆を飛ばしている私をみて、Cちゃんが笑ってくれたから私も調子にのったのだろうと思う。あっそうだ。豆を遠くまで飛ばして遊んでいたような気もする。1回で終わっておけばいいのにもっと遠くまで飛ばしたくて何度も繰り返しているうちに、豆が鼻の奥にはいりとれなくなってしまったのだった。(私、一応女の子なのに…)
 それからは大騒ぎになり、園の先生が処置をしてもとれなかったことから、園から歩いてすぐの場所の小さな診療所へ受診することになった。とれなくなったこともあり、私は大パニックでギャン泣きwww。そして、診療所の処置でもどうにもならず機材がなかったことから、市にあるかかりつけのT病院へ行くことになった。
 病院でレントゲンを撮るとしっかり豆が鼻の奥にあった。大豆なので、そのうち、ふやければ自然にでてくるだろうということで、無理な処置はせず自宅に戻った。
 その後、自宅へ戻り泣きつかれて昼寝をしている時、鼻だか口の中だかにふやけた大豆がでてきたことから一件落着となったらしい。というか、このことも途切れ途切れになるが脳内に映像が残っている。
 その映像の中には、診療所で鼻をいじられて〝鼻血がぶー〟ってなっている映像になるが、なぜだかそういった映像のみえ方は自身を含めた〝俯瞰〟した映像になる。それが自分でも不思議でならない。もしかしたら、幼児期から私は言語よりも映像で記憶するタイプだったのだろうと思う。そうした記憶がどこかで変換され〝俯瞰〟した状態の自身を映像として残していたのかもしれない。後は、こんなことが実際に起きるのかはわからないのだが、意識がある状態でも、意識の一部が解離し〝俯瞰〟した自身の姿を記憶できていたのかもしれない。そうなると、オカルト現象みたいなものになるので、おそらく前者のほうが確率は高いと思ってはいるのだが…。こればっかりは、40年以上前のことになるので定かではない。
 その記憶がどういったことでインプットされてしまったのかは、その当時の自身に聞かなければわからないので不確かな情報にはなるが、私が覚えているかぎりの体験と脳内に記憶されている映像をすり合わせながら、自身の中で巻き起こっていたことを想像の範囲で言語化しているだけなので、真実ではないのかもしれない。なので、話半分くらいで留めておいてもらいたい。
 ただ、豆を鼻でっぽうして遊んでいたら豆がとれなくなり、大事になってしまったということは紛れもない事実だ。そして、その後、保育園の豆まきで蒔かれる豆が大豆から落花生になり保育園の豆まきの歴史を変えたのは私だ。はい。ごめんなさい。すみません。
 ただ、当時は、食物アレルギーとかな人はいたかもしれないけれど、時代的にそういった人は存在していてもわかってなかったと思われるので、代替品として〝落花生〟でもよかったのだろうけど、もし、ピーナツアレルギーの人がいたら…と思うとめちゃめちゃ怖い。というか、昨今は大豆アレルギーもあるし、私が40年前に通所していた頃とは随分事情が変わっていると思われるので、保育所や幼稚園の先生方の気苦労は相当なものだろうなぁと思う。

嫉妬
 その当時Cちゃんと遊んでいてCちゃんがみつけた4つ葉のクローバーを私は横取りしたことがある記憶があり、それを40代まで握りしめていた(苦笑)懺悔の意味でも、このネタをそっ閉じするワケにはいけない。
 四葉のクローバーは野草なのだから価値なんてないと思われるかもしれないが、結構貴重だと思うというか、それを見つけた本人にとってどれくらい価値を感じているかわからないからこそ宝物みたいなものにしようと思ってたとするなら、Cちゃんにとってきっと悲しい思いをさせただろうし、泣かせただろうなと思う。友だちの大切なものを奪ってしまうなんて、どこまで私は嫉妬深かったのだろう。そういう出来事に保育園の先生が気がついて、Cちゃんに『ごめんね』と謝ったことを祈る。
 抑制のきかない無邪気な子どもだから…で済まされてしまうことが、後々、大きな因果になることもある。そして、私にとってそういったことが未解消の感情(罪悪感)として握りしめていた事柄でもあった。他者に悪いことをして『ごめんなさい』したからOK!ということがその時点でたとえできたとしても、私の中で昇華されないまま記憶に残っている以上『罪悪感』のポイントが溜まっていくだけとなってしまっていた。
 Cちゃんは私と違って優しかったし大人しいタイプの子で私とは正反対の女の子だった。しかも美人系。私はそんなに顔立ちが良いほうではなかったし、天真爛漫であるがままな時代の私だったからこそ、友だちのCちゃんから奪ってしまいたい程、四葉のクローバーが欲しかったのかどうかは、私自身その時の感情を覚えてないので定かではないが〝嫉妬〟でもあったのだろうと思う。下の弟と比べられて育ったからだけでもなく、気質的なものも影響もしていたのかもしれない。とりあえず、大人になった今は、逆に我慢もできるし、人に譲ってしまえるようにもなったし、40代になって起きた大きな価値観の再構築のお陰もあって、自分にとって唯一無二の存在を何かで奪われることになっても、悲しくはあるが大丈夫になってしまった(苦笑)
 大抵の人が今世で達成できなかったことを来世に期待したり、結ばれなかった恋心を持ちこそうとしたりする人が多いが、私は、昨今様々なことがありすぎて追い詰められたことで、本当に来世があってまた生まれ変わることができても、私はむしろ、もう一度人間になんて生まれ変わりたくないからこそ絶対〝来世〟に持ち越すような生き方はしたくない。だから、〝仕方がない〟という言葉で折り合いをつけられる自分になれたことで、本当に欲しい物を手放さなければいけなかったり、奪われても、たった5文字の言葉で封印ではなくもどかしい気持ちが昇華されるようになった。だから、来世に期待するなんてことさえ思わなくなったくらいだ(笑) むしろ、お化けより人類の方が怖いと思ってるくらいなのだから、人類になんて生まれ変わりたくない。もし、万が一生まれ変わることがあるとするなら、転んで失敗しても可愛いパンダがいい。
 ああ!超どうでもいいことだが、そういえば、母方の遠い昔のご先祖様は〝豪族〟だったらしいので、盗人のDNAが引き継がれているっていうことも奪ってしまった理由の1つかもしれない。なんちゃって。 

お母さんと母ちゃん
 私は実の母と折り合いが悪かったワケではないのだが、保育園時代から幼児でも徒歩圏内で行けた親戚の家で週末を過ごしていたこともある。
 夏休み中は、実家にいとこが帰省したりお盆以外は、ほぼ親戚の家に泊まっていた。私の母は、私の思いをくんで好きにさせてくれていたのだが、母やその親戚の伯母は、近所の人たちに心内ことを言われていたようだった。私はそういったことは何も知らないまま育ち、ある程度大きくなって知ったのだが、その親戚の家族は、そんな悪口は『気にしなくていい大丈夫』だといい、温かく迎え入れてくれていた。
 (ああ、でも本当はそうじゃなかったのかなぁ。そうじゃなかったとしたらごめんなさい。)
 母には、一応〝いい加減にせんかい的〟なことは言われたこともあると思うが覚えていない。ただ、小学生4年生から部活も始まったりしたので、幼児期のようにしょっちゅうお泊りすることはなくなった。それでも、思春期になり、それなりに仲のよい友だちができても友だちと折り合いが悪くなれば、年上の親戚の姉たちと過ごすほうが気が楽だったこともあり、中学時代までは入り浸っていたような気もするし、高校卒業するまではよく遊びに行っていた。
 親戚家族みんなが私を家族同然のように扱ってくれたし、私は長女だったこともあり、血のつながりは全くなかったわけではないのが、親戚の兄や姉は本当の兄や姉のような存在でもあった。 他にも近所に親戚はおり、お世話にはなっていたがそちらの親戚とは成長と共に縁遠くなっていったのだった。
 未満児頃からお泊りに行き入り浸っていたこともあり、その親戚は私にとってもう一つの実家のようなものになる。そして、兄や姉が伯父や伯母のことを『父ちゃん、母ちゃん』と呼んでいたこともあり、幼児期から入り浸っていたからか、私も自然に『父ちゃん、母ちゃん』と呼んでいた。そして、実の父と母のことは『お父さんとお母さん』と呼んでいた。
 ある日、父方の伯母が、親戚にあたるのに『母ちゃん』と呼んでいる私に

伯母「千晴ちゃん〝母ちゃん〟じゃなくて、伯母さんでしょ?」

といったことを言われたことがあった。私は、そんな伯母の問いに対して

私「母ちゃんは母ちゃん」

と答えたことがある。そのことについて、母は伯母にうまく説明してくれたようなのだが、伯母に注意されたからといって、私は『母ちゃん』という呼び方を変えることはなかったし、ある程度大きくなって試みようとは思ったのだが、逆に照れくさくてできなかった。それは、母方の末っ子の叔母も同じだ。叔母とは年齢が1回り違いだったこともあり、幼児期から『〇〇姉ちゃん』と呼んでいたので、ある程度の年齢になり、今更、叔母さんなんて逆にいうのがこそばゆく感じそのまま『〇〇姉ちゃん』のままにしている。

 健常域の人の中でもこういった類のエピソードを持っている人はいると思うのだがどうだろう? 発達障害の診断をされている人の中に私と似たようなエピソードを持っている人は案外いるような気がしているが、こういったエピソード1つだけで、発達障害のグレーゾーンかもしれない…なんて結び付けてしまう人もいるようだし、私自身も息子の障害が発覚した間もない頃は、そういったいくつかのエピソードをもっていたことで、自身が発達障害ではないかと疑うことになった要素の1つでもあった。こういったエピソードが自閉症スペクトラムを持つことで、生み出されることになった物語なのではないか?と思っていた時期もあったのだが、たった1つの部分的な情報を確定診断された当事者のエピソードに当てはめてラベリングできたとしても、実質、そういったことだけで発達障害の確定診断をなされるものでもないことはここで声高に言っておきたい。
 診断を受け、ある程度様々なことを経験した今だからこそ言えることだが、こうしたエピソードだけで〝障害〟だと確定されるものではなく、あくまで当事者のエピソードはその人の部分にすぎない。そういったエピソードは、元々の気質の特性に不随する一部の切り取られたデータになるので、確定診断された当事者のエピソードを自己診断の材料にしたり、自身の周囲をラベリングする材料にしないようにしてほしい。
 幼児期の場合でも、確定診断をされるのにはそれなりに、出産時からの成育歴や検査を含め日常で起きていることの聞き取りがある。保育園や幼稚園又は学校などに通っている場合には、その現場の関係者への調査などもある。当事者の周囲からの情報など様々な情報が揃い、それなりの時間をかけて医師が障害に値するかどうかは決まるものなのだ。
 だからこそ、ネット上で自己診断ができるチェックリストだけで〝確定診断〟と同等のように勘違いしてしまう群は一定数存在すると思われるので、そこだけで自身をラベリングしている人は今すぐにでも、そんな自分自身を疑ってほしい。
 何故なら自己認知と他者からみた相対的な出来不出来などは乖離していることも多いからだ。
 例えば…。慎重で完璧主義な場合には、実際には出来ていることも〝出来てない〟ことになっている人もいると思うし、その逆のケースだと、本人は出来ていると思っているが相対的にみると全く出来ていないケースもあるからだ。それとはまた別に、保護者やその人に纏わる人たち次第で過剰に心配されたり、又は、ほっとかれてしまうケースもある。だからこそ、自己診断で終わることなく〝相対的に評価〟してもらうという機会は大切にしたほうがいいと思う。
 それと〝発達障害〟の場合には、他の精神的な障害の特性とよく似ている特性を持っているケースもあるので、ネット上のリストだけで自己をラベリングしグレーゾーンという曖昧な言葉で、自身をラベリングしている人たちが一定数いるとするならば、自身が納得するまで白黒きっちりつけたほうが良いよと私は思う。そして、本人に限らず周囲もまた、その人の1部分を切り取り決めつけたラベリングをしてしまっている現状を私は懐疑的に思っている一人だ。他にも同じように感じている人が存在するなら嬉しく思う。
 そういった現状は昔から障害名などを変えて繰り返されてはいたが、確かにその手の啓発は大切なことかもしれないが、過剰診断やラベリングの危険性なども含めた啓発を発信してもらいたいものだなと思う。
 私はあくまで当事者であり、専門家ではないので診断に関することも障害に関することも熟知しているわけではない。自身が身をもって経験したことや過去に学んだことを踏まえる中で、疑問に思っているからこそ、精神医学や臨床心理学の先生やまたは専門家の人たちへの問いかけのつもりでこうしたことを綴っている。私と同じように思っている当事者は少なからずもいると思う。ただ、そういった当事者が個々で発信したところで、過剰なラベリングを止めることはできないからだ。だからこそ、こうした個々の意見を現場の人たちでより良く啓発活動に活かしてもらったり、診断の場で活かしてもらえたらいいなと思い、提議の意味でも発信している。
 それは、過剰診断もだが、未診断者の中には、なんらかが原因で障害が発覚し確定診断を受けても、その診断を認めることもできなければ受け入れられていない当事者もたくさん存在しているからでもある。それに、確定診断を受けたから、ハイそこで〝終わり〟ではない。 なぜなら、精神医療の世界基準も時代や研究結果次第では移ろぐものだからだ。だからこそ、1次的にでも自身の障害が〝確定〟されたからといって〝オワコン〟だと思って欲しくない。
 人によっては、それらの診断基準から外れてしまう時代が訪れることもあると思うからだ。それに、確定診断を受けたからといって、社会の中で生きていけないワケでもないからだ。 だから一旦諦めざる事になったとしても、自身の中にある信じて病まない気持ちがあるなら、その〝信じる気持ち〟を〝打ち消す〟必要はないと思う。それらを打ち消すことなく、自身の中で何かをきっかけにそういった気持ちが〝折り合える〟ようになることでずっと握りしめている〝苦しみ〟や〝生きづらさ〟がマイルドになることもあるからだ。
 これは1個人の感想に過ぎないのだが、大好きな漫画のスラムダンクで安西先生が『諦めたら試合終了ですよ』という言葉がある。ただ、それは、人生における一部のことであって人生全般を通してのことではない。真面目で律儀な人ほど、その言葉を真に受け止めすぎないで欲しいとも思う。
 人間、生きるか死ぬかの状況に追い詰められた時は、必ずといっていいほど、一旦諦めたり手放さなければ、先に進めないこともあるからだ。勝ち負けよりも、降伏することが生き延びる戦略のこともある。そして、白旗をあげたからといって、それで人生が終わったワケでもない。
 みんなと同じような生き方ができなくても、人並みのことができなくても、生き延びられていることだけでもその人にとってはとても大切な時期なこともある。だから一部の情報や杓子定規的な考え方の思想にはまっている人の場合には、まず自分がどう在りたいかを一番に考えてみて、様々な情報は捨て置く時期で自身の中で折り合える物事を模索したほうがまだいいと思う。というか、おそらくそういった物事から逃げるためだったり、欠損してしまったモノを埋めるかのような生き方をしてしまうことになってしまうのだと思う。だから、一次的に満たされるような幸福感を味わっても、それが持続しないのは、それは埋めようとしたり、すり替えているだけだからだと思うのだが、これまた、個人レベルの幸福度の価値観の前提が違えば、嫌そうじゃないし…といったマウンティング合戦になってしまうので、ああ、そんな考え方もあるのね。ほうほう。といった風に、自分の考え方や感じ方の価値観の違いを互いに認め楽しめるように皆がなれたらいいのになと思う今日この頃だが、こればっかりは言葉ではなんとでもいえるが、まだまだ出来てないに等しい。互いの違いを認め折り合えるようになれたとしても、それが世界平和につながるのかさえ、まだわからない。なぜなら、それらはまだ、全人類等しく同じ価値観になり、やってみたことがないからだ。そして、それらをやってみたところで、本当に争うことのない社会にできるのかどうかさえわからないのに、何故それが絶対値に成るといえるのだろうか?と私は思っているのだが、こういうこというと右とか左だとかいわれたり、むしろ、私みたいなのは中間層な部類になるので、矛盾しているといわれることになるのだが、いやはや、矛盾は誰しもあるものだということがすっかり抜け落ちてますわよ。オホホということで終わっとこう。あっまたお口チャックな案件かもしれない…orz そして、また話がずれている。トホホ。ということで、『記録のような記憶ー生まれてから思春期までの私のことー』①之参で締めくくろうと思ったのだが、なんだかとめどなくでて病まないので、①之四へ続く☞







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?