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#016_ざざっと成育歴②之参

〔思春期から青年期までの変〕

青々と茂る季節の迷路…まだ…続きまして

 年齢があがっていくにつれ、同級生を含む様々な陰口や噂話を聞くことで自分自身の悪い部分も気になりはじめたことが、私の〝主体性〟がブレていくきっかけになった最大の原因でもあったように思う。
 〝主体性〟がどんどんなくなり、自分なのに自分でなくなっていく感覚を日々感じながらも自己昇華できなかった青春時代は、自身に発達障害があると解るまで、嫌、解ったところで何も解消されなかった。それらを取り除くというより、過去にあった出来事で〝勘違い〟していたことや当時はカッコ悪い自分や邪悪な自分…etc ネガティブな自分を認められなかった。
 生れてから起きた様々な出来事で私の内側に澱のように溜まってしまったネガティブな自分を〝認める〟という作業は、約6年程前から行ってはいたが、過去の出来事を含め自身の気持ちが変化をしていく過程を言語化することで、より自己昇華できるようになったようにも思う。だからこそ、こうして言語化できるようにもなれたのだ。
 かなり遅くはなってしまったことに地団駄を踏み、悔しさや歯がゆさでいっぱいになり、落ち込んだこともあったが今現在はこれでもよかったのかもしれないと思えるようになった。
 ただ、現状でも尚、未だ、開かれていない〝パンドラの箱〟があるような気はしている。ただ、以前の私なら、それらをずっと探し続けていたと思うが、もうそういった自己探求はあえてしなくてもよくなった。なぜなら、わざわざそんなことをせずとも、日々の暮らしを淡々と続けるいく中で、自然に解消できる体験をしているし、特別なことをワザワザしなくても、日常生活の中で気づかされることが多いことにも気がつけたからだ。それに、自然と紐解けとけていく日を待ったほうが楽なこともわかった。
 ポジティブな自分やネガティブな自分どちらも私であるのに、どちらも私なりに認められていなかったからだと気がつく前は、何か特別なことで自身にアプローチをして昇華させようとしたのにも関わらず、紐解けなかったのは、ネガティブも含めただ認められていなかったに過ぎなかったからだった。


遮り蘇り振り返り折り合っていく過程の入口

 
2次成長期の思春期時代に、生まれてからの成長過程で育まれた様々なことをそぎ落としたり、自己コントロールがより良く賄えるようになっていく時期でもあるからこそ、人間関係を含む環境はとても大切なことだなぁと自身の体験を通してしみじみ思う。また、我が子を育てるからこそ尚更だ。
 自分史を綴り始めてから、6年くらい前から綴りはじめた『Facebook』や『はてなブログ』を遡って読み返している。その記事の中に下記の記事をみつけたので転記したいと思う。
※今から4年前に自身の過去を振り返って言語化したものです。ブログをそのまま転記すると、読みづらい部分や伝わりづらい部分があるのと、誤字脱字又は、多少、言葉の表現を変えたり文章を付け加えています。後、前の章と重なる部分もありますがご了承ください。 

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はてなブログ「ワタシの暮らしの忘備録より」
2016-06-16 06:15:32 | 私のこと

「 嫌われてなんぼ。嫌われていい。」

 最近ずっと小さい頃の事を思い出している。

 『私ってどんな子だったかなぁ…』と。

 近所でも評判のなきむしでよく泣いていた。みんなでゲームして負けてばかりいて負けそうになると、トランプの時はその場にあるカードを〝ぐちゃぐちゃ〟と乱してみんなを困らせていた(苦笑)食いしん坊だった。
 遊びに出かけると家に戻る事もしないので両親からは〝鉄砲玉〟と言われていたなぁ。。。馬鹿、おデブ、ブスの三拍子が揃っていて、虐められはしなかったけど、両親からも周囲からもよく言われていても、私自身は全く気にしてなく、一番気になっていたことは「馬鹿」だけだった。

 小学校3.4年くらいまでは、人とのコミュニケーションで困ったといった自覚もなかったし、学校が大好きだったと思う。嫌なこともあったけれど、本当に毎日が楽しかったような気がする。
 高学年になった頃から様々なことが嫌な毎日に変わっていった。学校長や担任が変わったことだけではなく、思春期に突入する頃だからというのもあり、クラスの友だちもだんだん大人びてきて、爪や髪のお手入れをする子が増えたのに対し、私は全く興味がなかった。でもみんなに合わせないと、陰口を言われたりそれが虐められる原因になるような気がして、私の意志とは関係なく、いつの間にかみんなと同じことを好むようになった。
 同級生(特に女子)に嫌われているのもなんとなく感じたりしていたし、女子だけだと16名程度だったが、その中にボスキャラが数名いた。同級生の女子は本当に性格の悪い人ばかりだった(そんな私も性格はよかったとはいえないf^_^;)今思うと、〝性格が悪い〟というより親の歪みを引き継いでいたのかもしれない。
 私は同級生の子の中では、わりと素直で子どもらしい子どもだとよく言われていた。当時を振り返ると、単純に他の子より〝社会性〟が成長してなかったのだと思う。
 〝社会性〟は成長と共に自然に発達していくものだと思われるが、私の場合には、みんなに合わせてついていくのが精一杯だった。それとは別件で、高学年の頃の担任の事は今でも嫌いだ。
 私に対するK先生の〝思い込み〟や〝思い入れ〟が私を困惑させていた。とても嫌だった。 先生は悪い人ではなかったけど、私の個性を潰した人の中の1人だと思っている。一時期は相当恨んでいたこともあったくらだ。
 小学校を卒業し中学生になってやっとK先生と離れられると思ったけれども、学校生活の中で精神的に追い詰められるたびに、K先生に追いかけられる夢を中学3年間ずっと見続けた。本当に辛かった。それくらい嫌だった。そして、それくらい、自分自身が苦しんでいたことを誰かに伝えることができていなかった。
 中学になってK先生から解放された!と思っていたら、中学1年生の担任は更に最悪だったようだ。今だに中学1年の頃のことは思い出せない事が多い。何があったのかはわからないし、ほとんど覚えていない。
 ただ中2になり、理科の先生に『お前たちの顔がみんな般若の顔にみえる』と言われたらしい(私は覚えておらず同級生に教えてもらった)ので、何かあったんだなと思う。
 私が覚えているのは夏の初めだったか、先生の説教を聞きながら窓の外の景色を眺め、空が青くて綺麗で眩しかった事や夏の宿泊学習で、私はその時期学級委員だったのだが、何かをしくじったようで個別に呼び出されキャンプ場の片隅で担任にビンタされたこととホームルームの場面だけしか思い出せない。楽しかった事も嫌だった事も全然思い出せない。
 ただ、そういった思い出せない一定の時期があることに気がついたのは、大人になってからだ。そして、その時期を思い出そうとしてしてみたが、全く思い出せず綺麗にすっぽり抜け落ちているのが、自分には不思議に思っただけでなく、少し怖くなった。
 中学2年生の頃だったと思うが、自分と他者との〝価値観の違い〟にハッキリ気がつき、どうしてもみんなの〝感じ方〟や〝考え方〟が合わず

『障害者と健常者の間に何かあるといいのになぁ
 私は障害者でもないし健常者でもない』

と思い悩んでいたのだが、そんな悩みを誰にも言ってはいけない事だと思い、大人になるまで自分だけの秘密にしていた。それでも、私なりに結構悩んでいた案件だった。 今現在なら〝個性〟という言葉で片付けられるけれど、その当時の私は〝個性〟という言葉で片付けられるほどでもなく、みんなとの価値観が違いすぎる事が一番悩んでいたように思う。
 そして、目立ってしまう自分を抑えるのに苦労した。目立たないなんてできない性分なのに、同級生にそういった自分が嫌われていたり煙たがられていると思い、なるべく目立たないように目立たないように…と振る舞うけどやっぱり目立ってしまう。でしゃばってしまう…といったほうがいいのかもしれない。同級生には〝でしゃばり〟だと思われていただろうなぁとおもっていた。それは、親からも言われてそだったからかもしれない。言わなくてもいい一言を口走ってしまうことが多かったからだ。
 それに加え、同級生の女子の気持ちはさっぱりわからなかった。小学生までは男女分け隔てなく話していたのに、中学生になってその状況は一変し、男子と話すだけで噂されるようになった。 自分は同級生の男子を友だちだから今まで通り普通におしゃべりしていただけなのに、その子を好きな女子に呼び出され

「〇〇の事が好きと?」

と聞かれたことがある。目が丸くなった。全く意味がわからなかった。だって、ついこないだまで男女関係なくみんなで喋ってたじゃーん。なんで今更そんな事で呼び出されるんだろう。当時は本当に意味がわからなかった。そして、その意味がわかったのは自分が大人になり彼氏ができてからだった。
 こういったことからも〝社会性〟の発達デコボコだったんだなと思ったりする。他にも色々とはあるけれど長くなりすぎるので、また別の機会にブログに書こうと思う。

 当時を振り返ると元々〝個性的〟な子どもだったのに、成長過程の中で、自我のコントロールは出来ないまま〝主体性〟のない人に育ってしまった。 両親の前では我儘を言えてはいたけれど、きちんとした〝反抗〟はできていなかったと思うし、何もかも我儘を通していたわけでもなかったと思う。何故なら、大人は子どもより〝偉い人〟だと思っていたし、言葉では勝てなかったからだ。自分の思いを伝える語彙力がなかったというのもあるが、胸の内を話したところで〝理解してもらえないだろう〟という勝手な思い込みもしていた。

「私の気持ちは誰にもわからない」

 なんて、当時は思い込んでたけれど、今思と、ただ単に自身の気持ちを表現できるくらいの言語体力がなかったから、うまく説明できてなかっただけだった。それと、私は鈍感なのでそういえばなんだか悲しい〟とか〝そういえばなんだかモヤっとする〟ということが遅れてやってくる。つまり、体験した時と時間差(乖離ともいっていいのかもしれない。)がその当時からあった。
 おそらく、誰かの発言や態度を受け取ることはできても、動画として記憶はできても、感情は切り離された状況だったのか、その場はただ笑って相手の言葉を認めて受け取っていた事が多かった。それは、相手の人が何をいわんとするのかを汲み取れてなかったこともあるように思う。だから、本当はその時、嫌な気持ちになっていても、相手を〝否定〟することなく〝認める〟ことが多かったのだろうと思う。ただ、相手の発言を〝否定しない〟ということは、自分責めをしていることにもなるわけで…。当時の私は鈍感でもあったが、気にしいでもあったことから、自分自身の味方になることもなく自己防衛できてなかったのだなぁと数年前に気がついたのだった。
 それからは、イチイチ、その瞬間の自身の感情を大切にするように心掛けた。私が発したたった一言で、たとえ相手を傷つける事になったとしても、自分を守ることになる言葉ならば、言うように心がけている。たくさんの人に味方になってもらうより、自分自身が自分の1番の味方であれば、何も怖くもなかったという事に気がついたからでもある。
 思春期時代から大人になったつい最近まで、他者に〝嫌われてしまう事〟が最大の悩みだった。みんなと仲良くできない事が悲しかった。でも、それも外側へ〝言い訳〟を見出していただけで、自分自身がの一番自身の事を誤解していて理解できていなかっただけだった。私自身が自分のことを1番嫌いだった事はわかっていたが、人と仲良くできないことや、友だちが少ないから〝孤独〟を感じていたと勘違いしてきた。でも、実はそれは勘違いだったという事に気がつくような事があり、その時初めて〝孤独〟から解放された。
 自分自身の〝良いところ〟も〝悪いところ〟も引っ括めて認めて受け入れられた時、はじめて、〝ワタシ〟は〝私〟を好きになれた。そして、30代の前半から、『老後のために…』と思い、練習していた「ひとり遊び」が、今とても役に立っている。
 小さい頃から早くおばあちゃんになりたかった。大人になれば自分の中にしまい込んでいた〝ネガティブな秘密〟は全て解決できると思っていたからだ。それはそれで間違いではなかったけれど、めっちゃ時間かかったな f^_^;) 遠回りはしたけれど、おかげで、一般的にはしなくてもよかったかもしれない体験もできたし、それらから派生した〝副産物〟もあるから、良しとしとこう。ようやく生きる事が楽しくなってきた今日この頃である。

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 いやはや、4年前の記事を改めて読んでみると、自身の中でいろいろ解決をして、内側では丸くおさまっているけれど、それを言語化することがまだまだ下手だし、自身が思っているほど自己表現ができていないのを感じた。 それでも、その時に自身の内側で巻き起こっている状況を〝言語化〟することが下手ではありながらも、こうして〝記録〟に残していたことが大切だったことは過去記事を添削しながら改めて感じている。
 この当時は、バラバラだった自分が〝統合〟できていたと自身では思っていたが、まだまだ、チグハグだったんだなぁというのが今の私ならわかる。 まだ統合が始まったばかりなくらいで、私の中に存在するいろんな自分がピッタリ重なるのではなく、主軸から2・3ミリ程度ズレて重なりはじめている状況だったのかもしれないなぁというのを読んでいて感じる。つまり、バラバラだった感情が主軸となる人格に重なり始めているが、まだ、それらにはズレがあり折り合えてもいないというか混ざっていない状況ってといえば伝わるだろうか? 
 例えば、境界線の線数が1本で分断されているかグラデーションになっているかの違いのようなもので、前者の場合が(境界線の線数が少なくハッキリわかれている状況)過去の私で、後者の場合(境界線の線数が多く適度に折り重なっている状態)が今現在の私のようにおもったりもする。そして、前者のような状況が〝ブレ〟といわれる状態になるのかもしれないとも思ったりもする。※個人の感想デス
 元々は自我が強く〝主体性〟も持っていた私が、思春期の時代を境に〝解離〟してしまう原因にもなった。それが〝自己逃避〟といわれるものだと思うのだが、実際、〝解離性の人格障害〟といった診断を受けたことはない。

黒い箱と白い箱
 いつだっただろうか。中学生になると親より同級生と話すことのほうが多くなると思うが、私はそんなことはなかった。ただ、学校生活の中で自身の内側に生み出されたネガティブな感情を日記に書いたり、詩を書いたりすることで吐き出してはいたが、結果的に自問自答するだけとなってしまい、どうすることもできなくなってしまった時に、ふと、自分なりに辿り着いたことが、ポジティブな感情とネガティブな感情をわけ、脳内にそれぞれのボックス(ネガティブボックスとポジティブボックス)にいれることを思いついた。そして、ネガティブな感情はそのボックスにしまい込めば、私の内側に格納された状況になるので、そのボックスの蓋をすることがその当時の私成りの戦略となった。
 何故、そんなことを思いついたのかというと、何かをキッカケにして、悪魔な自分や他者との関わりの中で生み出されるネガティブな感情が浮かんだことが〝罪悪感〟となり解消できないまま、脳内に溜まってしまうだけだったからだ。そして、それらのネガティブな感情に飲み込まれていくように感じたことから、脳内に2つのボックスをつくり分けることを思いついたのだろうと思う。それからは、それぞれの箱に感情を分けて、ネガティブな事柄はしまい込むようし、分離させるようになってしまった。
 それが〝乖離〟の前兆でもあったように思う。それでも、最初は上手くいっていた。ネガティブな感情は蓋をしめれば見えない。それに、ポジティブなことを考えることに逃避すれば、そちら側だけを感じていれば自分が楽だったからだ。
 思春期になるまでは、邪悪な自分(無邪気ともいう)に対してもそれほど罪悪感を持っていたワケでもなかったし〝鈍感〟だったからこそ、様々な出来事が起きても飲み込まれずにすんでいたのだが、成長と共に経験値もあがる。そして、知識が増えていくことで、それまでに分からなかった出来事も点と点が結ばれ、面となり、遅ればせながら意味がわかることから巻き起こってしまう不具合が起きてしまっていたのだろうと思う。それは、知的障害のある自閉症の息子にも起きているのが見受けられる。息子を育てることになったから、自身の握りしめていたことに気がつくことにもなったのだが、この遅れてやってくる点と点が結ばれ瞬時に理解が深まるという作業はネガティブなことであればあるほど、本人には辛くて苦しむ作業だ。結果的に悪いと思ってなかったのに、自身の非を認めざるを得ないことでもあるからだ。善い行いだと思っていた物事が実はエゴだったと気がついた時には恥ずかしさや傲慢な自分を思い知り、消えてしまいたいくらいの苦しみとなってしまう場合もあるからだ。私はそうだった。そして、逆のパターンもあり、酷い仕打ちを受けたと思って恨んでいた相手が実は、私のためを思っての行動だったということを知った時も同じだった。
 ただ、私の場合には〝自分責め〟をする〝癖〟がついていたことも苦しみを倍増させてしまっていたように思う。それらに飲み込まれないようにするための知識や仕組みを知るために、〝自己啓発〟などの著書をよんだりするようになった。
 そんな思春期時代に霊的体験も同時進行で経験していたことが、更に自身を困惑させてしまっていたように思う。その当時を振り返り3年前に綴った詩があるので、併せて読んでもらえたらと思う。
 
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20170309はてなブログより…

「遠い昔の私のこと」

私にとって「生きる」ということは
〝葛藤〟と〝戸惑い〟の連続だった

バラバラになった心を拾い集め
再構築していくそんな繰り返しの毎日

拾い集めたカケラの中にはいつの間にか
他の誰かのカケラが混じり

隙間のあるツギハギだらけの心(うつわ)に
たくさんの賞賛を注ぎ自分を満たそうとした

キラキラ輝くために他者という鏡に光をあて
自分が輝いているように見せかけの光を放っていた

そして 、自分で自分を満たすことを
いつの間にか忘れてしまい

〝窮屈〟で〝退屈〟な生き方を
選ぶような大人になっていた

どの自分が私なのか
どんな気持ちが私の本当の気持ちなのか...

好きか嫌いか、
したいのか、したくないのか
何がしたいのか…

そんな簡単な選択さえできない
空っぽの私になっていた

私は私の内側の世界で迷い子になってもいた
それでも、命があるから生きていかなきゃいけなくて

死ぬ勇気もなくただ坦々と過ぎてゆく毎日に
身を置いてただ動いていた

そんな日々ももう遠い昔のこと

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 この〝詩〟は、大人になり、久しぶりに詩を書き始めたばかりの頃の詩になる。

私にとって「生きる」ということは〝葛藤〟と〝戸惑い〟の連続だった

 詩の冒頭のこの一文は、発達障害が発覚した間際の頃に感じていたことを覚えていたので、この一文をはじめに〝詩〟にしてみた。そんな風に思い過ごしていた日々が夢だったかのように、遠い昔のことに感じたのだが、それからは、そういった事態に陥ったからといって、我武者羅に藻搔いてなんとかするようなことは少なくなっていった。おそらく、それは〝熊本地震〟で被災したことでの価値観の変化が起きたからだと思う。
 それと「生きる」ということを難しく考えすぎていたのには、付け足すような生き方が望ましいと考えていたからでもあるが、他にも理由がある。それが「生きる意味」を自問自答することにもなってしまったように思う。その話はまた別の話でより深めて綴れたらと思う。

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