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#019_ざざっと成育歴②之伍

〔思春期から青年期までの変〕

青々と茂る季節の迷路
まだ…まだ…まだ…続きますデス

 元々、単純で深く考えない体質だったのが、この時期を境に些細なことまで意味づけをしたり深く考えすぎるようになってしまった。ただ、考えても考えても堂々巡りな答えとなり自分責するほかなく、それでもそんな自分を受け入れられなかったことや〝本音〟と〝建前〟には〝ズレ〟があることが当たり前だと思うが、それが一番受け入れられなかったのだと思う。
〝正しい事ばかりは言ってられない〟だけれども、自分にも他者にも〝嘘〟をいってることは変わりないと思っていた。
 だから〝本音〟と〝建前〟を上手く使い分るようになることも大人になるということなのだと勘違いしていたこともあり、それが更に私の感情を分裂させていくことにもなったんだろうなぁと思う。そして〝本音〟を〝建前〟に摩り替えることで、自身の〝本音〟がわからなくなったというより、出せなくなってしまったんだろうとも思う。
 要するに、自分と価値観の違う世界の中で〝生きる〟ということは、相手にも自分にも〝建前〟という〝鎧〟で自己防衛するほかなくなるからだ。ただ〝建前〟という意味を私は大分勘違いしていたようにも思う。なぜならば〝建前〟を〝嘘〟だと思っていたからだ。捉え方を勘違いしていたことに気がつけたのは数年程前になるのだがそれだけでも随分楽になった。
 〝建前〟は〝嘘〟ではないけれど〝本音〟でもない。要は〝中庸〟な位置づけの言葉だったんだなと思えるようになったことでも、更に気が楽になった。そして、それらを使い分けることはなくても、自分の目の前で起きた出来事に対して〝事実〟を伝えることは、特に悪い事でもないことに気がついたのは私にとって未知の領域だった。
 如何せん、様々なことで自身の主体性の芽を周囲にも摘まれ、自分自身でも芽が出そうになれば引っ込めて…といったようなことで、持って生まれた自分らしさがどんどんなくなっていくように感じていた時代でもあった。


脇役から主役へ
 中学生になって、ふと、自身が脇役な人生のように感じて落ち込んでいたことがある。それは、多分、漫画ばかり読んでいたこともあるだろうし、小学生になり学級委員になることはあっても、それ以上の役割になれたことがなかった。元々目立ちたがり屋なのに、実力もなければ容姿もとりたてて良かったワケでもなく…。学校行事で本当にやりたかった役割を自分が担うことができなかったことは、正直言って悔しかっただけじゃなく、自身がなぜ〝選ばれない〟のかという理由は、自分の実力不足や容姿のせいだと大人になった今でも思っている。過去ブログにも似たような記事を見つけたので転記しておこう。
 4年前(2016年)のFacebookで一部の人たちだけに公開していた記事を踏まえ、その1年後(2017年)とその又1年後(2018年)に過去を振り返り綴った、はてなブログ『今日の空』の記事になる。
※今回noteに転載することにより、誤字脱字や読みにくい部分に関しては一部修正しております。ご了承ください。

2016年5月3日_Facebookより

『生きづらさの正体』は私にとって〝嘘も方便〟とか〝社交辞令〟とか
〝日本人の美しいといわれる教育〟とか…
在り方の枠に収まらないし、理解できない事からの不具合が起きてしまうって事もあったのかもしれない。

 どんな生き方や価値観を持って生きても、私自身が周囲の意見に惑わされず、気にならない人間であれば、変人を極めれば、普通になろうとしなければ…よかったのだろうなと思う。

 誰かや何かと比べたり「あの人みたいになりたい!」といった、他者への憧れが、逆に自分を戒めてきたのだろうとも思う。

 私は誰かになろうとしてたのかもしれない。私を極めればよかっただけなのに、誰かの人生の主役になりたかったのかもしれない。
自分の人生の主役だという事がいつの間にか抜け落ちてしまっていただけなのかもしれない…

 勿体ない事したなぁ20年。。。も

 この記事は、Facebook内で一部の人たちだけに公開していた記事になるのだが、この当時はまだ自己開示をする練習と他者へわかりやすく伝える文章を書けるようになりたくて練習していた時期だ。そして、自己治療のために行っていた、カラーセラピー等の講座で、知り得たことなどを自分なりにまとめたりアウトプットしていく練習もしていた時期になる。
 とりあえず、自己改革する前の準備段階のような時期だったので、頭ではわかっていた状況だった。そして、この後、Facebookだけではなく、ネット上のブログで自身のことを綴り始める前になる。そして、その一年後には、こんな記事も綴っていた。

ワタシの暮らしの忘備録(2017年4月8日)より

『今日の空』

 中2の頃だったか、私はそれまで自分が脇役だと思っていました。それは、小さな頃から学校のお遊戯などで主役をしたこともなかったし、美人でも可愛くもないしクラスのボス的な子がいたこともあり、いつの間にか自分は脇役だと思いこんでいました。

 ある日、何がきっかけだったのか忘れたけれど

「これまでずっと脇役だと思ってたけど、
 実は自分の人生の主役なんじゃん!」


って思った時、飛び跳ねるくらい嬉しくなったことを覚えています。
ただ、私はいつの間にか、自分の人生の主役だけでは飽き足らず、友だちや歴代彼氏の人生の中でも〝主役〟になりたがってたことを数年前に気がつきました。
 その時、本当に自分が恥ずかしく、今まで迷惑かけてただろう人たちに申し訳なく思い落ち込みました。
 友だちや歴代彼氏の中で

『一番の友だちや歴代彼氏の中で特別な存在でいたかったこと 』


 それが頭ではわかっても、どうしても拭いきれない嫉妬や母に対して拗ねてた自分をずっと抑えていたことにも気がつきました。
 別のことで反抗はしていましたが文句も言ったことがありませんでした。何故なら、母が私に言い聞かせていた〝言い訳〟めいたことを覆すような言葉を持ち合わせていなかったからです。今思うと、

「◯◯ばっかりズルイ! 私のこともちゃんとかまってよ!」

ただ、それらを思う存分伝えることなく、中途半端な反抗しかしてこなかった。たったそれだけのことですが、母に嫌われてしまうのではないか、母を困らせるのではないかということを恐れていたのかもしれません。
ここ数ヶ月にかけて、何度かにわけ爆発し、数十年間の抑えていた自分の思いを吐き出したら私の中に残っていた、シコリのようなものは無くなったようです。
 胸がザワザワしたりモヤモヤする頻度が下がりました。不思議です。そんなことがあったからでしょうか。
 子どもを産んだことをずっと後悔していた私でしたが、今は我が子が可愛くて愛おしくて仕方なくなりました。すっかり親バカになりました。笑

私はこの世に生まれた時から、母にとって特別だったこと、母には弟も私もずっと特別で比べられないくらい大切だった。
そんな分かりきっていることにやっと気がつき腑に落ちました。

 ごめん。お母さん。私バカだけんやっと気がついたよ。やっとわかったよ。大切にしてもらってたこと。私の勘違いだったこと。本当にごめん。そして、私の毒出しに付き合ってくれてありがとう。

感謝。

 
 は、恥ずかしい。顔から火が出るくらいだ。
と、とりあえず、この時はまだ『感動ポルノ』な領域の自分だというのが文章の端々から滲み出ているように思う。それに、この時期に私は、過去の様々なことを全部毒出しし清算できたと思っていたのだが実は違った。
 この記事を書いた翌年、この時以上の苦しみが訪れることになり、本当の意味で人格が統合することになったのは、元相方と別れた時だった。早いもので年を越すともう3年前のことになる。お陰様ですっかり上記のようなことから抜け出せている。
 む・し・ろ… 私の人生に土足で突っ込んで来て〝主役〟を張りたがるような人たちが存在することに気がつき、邪魔で仕方ないとまで思うようになった。一応、私なりの暖かい対応を心がけてはいるが…できているのだろうか…? てへぺろ。
 
 ただ、自身の過去を振り返っていて、転記した記事の内容で勘違いしていたことがあったので、付け足しておかなければ…。

 実は、幼児期時代に主役級の役を担っていたことが一枚の写真から判明した。『大きな株』のおばあさん役だった。そして、もっと小さい頃は、ほっぺが真っ赤っかだったことから、紙で作った林檎の帽子を被せられ【りんごちゃん】という演目が書かれた横で立ってる写真も発見した。その他にも、幼稚園の卒園式になるが母をハラハラと心配させる役割を自ら「やります」といい、かってでたくらいの人柄だったことも思い出したのだ。
 ただ、小学生になり同級生が増えていくことで、私の出番は少なくなっていくワケで…。それは、当たり前のことだったのに、自分がやってみたかった役割に選ばれることがなかったことを勝手に自己否定の材料にしてしまっていた。ただ、その当時は、選ばれるくらいの実力やセンスもなかっただけだったのに…。でも、どこかで私の感情が捻じれてしまい、自分は脇役の人生なんだと思うようになっていたのだ。
 で、転記した記事中にもあるように、中学2年の頃、教室のベランダに出て外をぼんやり眺めていた時に、何がきっかけだったのかは忘れてしまったが〝自分の人生なのだから、自分の人生では主役なんじゃん!〟と気がついた時は、心の底から喜んだことだけはしっかり覚えている。それくらい、卑屈な人間になっていたのだ。
 そして、そんな自身も歴代の友だちや歴代彼氏にとって、私が1番の特別な存在であって欲しいと思っていたことに気づいた。要は、自身の人生の主役であることに気がついても、誰かの人生の中で主役級な役割でありたいと思っていたことに気づくことにもなったのだが、その対象はいつの間にか擦り替わっていたことに気がつくことになる。して、その対象が実は〝母〟だったということを知ることになった。そのことを知るきっかけになったのが「心屋仁之助さん」だった。
 ただ、私は心屋さんの弟子でもなんでもなく、ただのファンみたいなもので、リスペクトしている部分はあるけれども、だからといって全部を鵜呑みしているワケではない。というか、セミナーとかは受けたことはないので知らないといったほうが正しい気がする。
 ただ、自分の場合には、世間一般の普通と言われる人たちよりも、一般常識は十分知り得ていたし、正しい事の方を好む体質だったことも自身でわかっていたからこそ、自己矛盾を生んでしまっていたことにも気がついたことで、〝常識を捨てる方法〟を知りたかったのだ。で、それが派生し〝お母さんは御本尊様〟という言葉を知ることになったというワケだ。
 心屋さんとの出会いについては〝養生生活編〟の章で詳しく綴りたいと思っている。ただ、私は弟子でもなんでもないってことだけは一応強く断言しておきたい。そのかわり、心屋氏のお弟子さんや孫弟子さんたちとは実際直接お話したり、カウンセリングなどを受けたりしたこともあるので、その件につきましても後程…。

 さて『自分の人生の主役は自分』だと気がついた件に関して、何度目かの確認作業として自分の中で蠢いていた様々な感情が、3年の月日を経て自身の中で一つの仮説のようなものができた


ワタシの暮らしの忘備録より

『今日の空』
(2018年2月11日)

 思春期の頃は、自分はずっとわき役だと思っていて自分の人生の主役だと気がついたときに心の底から喜んだことがありました。それでも、私は自分の人生を生きようとせず誰かの人生の中で輝きたいと思ってことに気がつくことになりました。そんな自分に気がついた時は顔から火がでるほど恥ずかしくて自分自身が嫌になりました。
 もうどんだけ私おバカだったんだろう…。そんなことも思いました。わたしみたいな人は世の中にたくさんいるのだということも、気がつくことになった昨今ですが、自分の人生だから誰かに決めてもらう生き方より、たとえ失敗しても自分で選んだほうが後悔は少ないように思います。
 結果的に私が辿り着いたのは『主体性』という言葉でした。その『主体性』の芽をつむことになっていた、そもそもの要因が私の場合には、〝愛着の不具合〟でした。でも、それは誰のせいでもなく、たとえ親子といえども1対1の人間同士です。だからこそ、互いの〝尊厳〟をみあやまり共に生きている中で起きてしまった掛け違ったボタンのようなものだと思うにいたっています。
 私は、それに気がついたから一旦全部そのボタンをはずし掛け違えたボタンを正しいだろう場所にかけかえるような作業をこの2年弱の間行いました。失くしてしまったボタンもあるけど、それはそれで、許せている今日この頃です。

 上記の記事を踏まえての現在2020年11月。猪突猛進だと思われがちだが、これでも、意外に自分の中ではかなり慎重に物事を考えて猛進するので、それなりの時間はかかったのだが、4年前に気がついたからこそ、私なりの事前準備が整えば突き進むほかなく、掛け違えていたボタンに気がついた時から勇気を振り絞り、一旦全部ボタンを外し一つ一つかけなおしていくような作業を行ったことで現在の私に仕上がったので満足している。
 細かい部分にかけてまでイチイチ行った作業で、欠落していた部分が自分なりに顕著にわかるようになったことで、欠落した自身も受け取れるようになったのだろうとも思う。そして、その欠落している部分を〝元に戻そう〟とか〝変えよう〟とか思わなくなっていった。
 それはなぜかというと、日常生活を送る中でワザワザそれらを無理やり掘り起こしやり遂げようとせずとも、自分にできない分野は誰かに頼ればよかったり〝やり方〟や〝考え方〟を変えるだけで、自分なりにクリアできることもわかったからだが、如何せん、自分だけが前に進もうとしても足を引っ張る人は必ず存在する。
 ただ、そういう人にとっても、私が長年握りしめていただろう

「他者の人生の中で私は特別な存在でありたい」


といった叫びと同じなのかもしれないと思うと『仕方がない』という五文字で成仏させられたりもする。たとえ、胸糞わるい相手だとしても。それは、〝他者〟という鏡を通して、私でもあったのだから…。

被害妄想が倍になってしまったワケ

 私が誰も信用しなくなったのは、大人になり一度社会からドロップアウトすることになった時だけではない。元を辿れば、中学生時代に同級生に試し行動をされたことが、大人になってから、何か事あることに〝疑心暗鬼〟になってしまう〝根っこ〟になっていたようだ。それと、元旦那と知り合い付き合っている中で、それらは増長されることになってしまったようだ。それらが土台となってしまっていたことで、閉鎖病棟へ入院することになった時は『幽霊よりも怖い存在は人類』だと悟ったくらいだった。
 そして、今だに〝疑心暗鬼〟になることは続いているが、それらに搦めとられることなく、自分なりに回避できるようになってはいるが、ドツボにハマると、脊髄反射が起き、容赦なくなる。もういい加減勘弁してほしい。
 
 私も、他者に対して『無意識の悪意』めいたことを行っていただろうということは自覚しておかないといけないと思っている。ただ、そんな私だって、恨み言になってしまうが、中学の頃に同級生からの『無意識の悪意』や『試し行動』を経験したことが、社会生活を送る中で〝人間関係〟をより悪化させてしまうことにも繋がってしまったことは、ここで吐き出させてもらっておく。
 何故なら、私と同じように、誰かの〝些細な悪戯〟や『無意識の悪意』によって、不登校になったり、孤立したり、引きこもったり、最悪なケースとして、自死してしまう又は相手に危害を与える原因になりうることもあるからだ。
 私の場合には、中学になり、始めて自分と〝価値観〟があう同い歳の友だちができたことが嬉しかった。学校にいる時間だけでは足りなくて、その子と〝交換日記〟をして互いの価値観を共有したり、好きなアイドルのことや好きな人のことを話したりしていた。 それとは別に〝日記〟も書いていたのだが、当時の親友にさえいえない本当の自分の気持ちを〝詩〟にするなどして書きとめていた。
 毎日とはいかないまでも、中学3年間の出来事の中で書き綴られた当時の自身の言葉は、私にとって消してしまいたい〝黒歴史〟みたいなものだと思っていたこともあり、中学を卒業した後、家の庭にあった一斗缶の中に入れて焼いた。数冊の日記は灰になってしまったけれど、それでも、私の脳内に刻まれた黒歴史は消えることはなかった。

 今となっては、そんな時の日記だからこそ残しておけばよかったと、今更だが、至極、後悔している。 乖離してしまっていたことに気がつき、記憶がない時期があったことに気がついたからこそでもある。それらを辿るには、その〝焼いてしまった日記〟が手掛かりになったかもしれないのに…。
 その〝交換日記〟と〝自分の日記〟があることを人づてに聞いて知った、同級生のボス的な位置のKちゃん(Kちゃん自身自分がボス的な存在だと気がついていなかったようだ)に、盗み見された経験は、私の心をズタズタにすることになった。 それとは別件でも、母にスケッチブックを盗み見され、ケナサレタこともあったことが私の自尊心を傷つけるに留まらず、私自身を否定されたように感じることを増長されてしまった。それらに纏わることを4年前のブログに綴っていたので転載する。
※転載にあたり、多少の誤字脱字等修正しております。ご了承ください。


☆2016年6月6日から2016年11月28日まで旧ブログ
「これまでイマココこれから」より

2016-07-15 06:00:40 | 私のこと

『妄想族になった経緯』

 〝妄想〟が酷い時は、必ずといっていいほど、世にも奇妙な物体が見え始める。それが進むと金属音が聞こえたり、チカチカやきらきら光る光の粒なんかもみえる。
 こんな風になってきたら、余計なこと拾いすぎてる注意報だ。体調が悪くなってる目安になる。そして、最近気がついたのは、どうも眠っている時に夢をみて覚えているかいないかも、私の場合は〝体調〟と関係するのかもしれないこともわかってきた。
 夢をみても覚えてないって朝が快適ですね。最近また夢をみて覚えていることもあるのでなんか朝が辛いのです。とりあえずは起きれるけれども。あっ話がズレた…(´・_・`)

 最近は大分マシになってきた〝妄想との闘い〟の幕が閉じようとしている。もう、〝妄想〟と闘うことを止めたからだ。白旗をあげることにした。
 私は負けず嫌いだから〝妄想〟にさえ闘いを挑んでしまう。〝妄想〟と闘い始めるとろくなことがない。
 私の場合、〝被害妄想〟が酷いと身近な身内だろうが知り合いじゃなかろうが、世界中の人がグルになって、私を落としいれようとしてるんじゃないかという気持ちになり、みんなを疑いの目でみてしまう。
 パトカーとすれ違うだけで、自分は見張られてるんじゃないかという気持ちになるし、アパートに知らない人が車を置いてると見張られている気持ちになる。
 シンクロ二ティが多くなると被害妄想も膨らむ。みんなで私を落としいれようとしてるんじゃ?ということとになって、ちょっとしたことで誰も信じられなくなる。本当に情けない。
 ただ私がこうなった原因の1つは、閉鎖病棟へ緊急入院する前に、転職した先で、自分が転職したのは、仕組まれたような〝錯覚〟を起こしたことからだった。その転職先(U社)の人たちは悪気はなかったと思う。
 でも、その当時の私には、U社の人たち皆が〝意地悪〟しているように感じた。会社に1人で留守番することになったり、私は1人で仕事をして、他の人たちは別室で会議していたり。私が、きちんと仕事ができるのか試されるようなことをされたり(´・_・`) 
 とりあえず会社の人たちは〝意地悪〟してるつもりはなかったのかもしれないけれども、その当時の私は、すこぶる病んでたこともあり、会社の人たちがすることなすことを意地悪だと勘違いしてしまった。多分、2割くらい意地悪な気持ちはあっただろうけど〝意地悪全快〟ではなかったと思う。
 このことだけじゃなく、元々、過去に、同級生や母に自分の日記や当時一番仲の良かった友だちとの交換日記やスケッチブックを盗みみられたりしていたことがある。
 母にスケッチブックを盗みみられた後、私の絵を才能がないとか言われたりしたこともあり、思春期だった当時の私はとっても傷ついた。
 そして、中学の時の同級生の中でボス的存在だったKちゃん(本人はボス的存在だと思ってなかったよう)には、その当時親友だった子との交換日記を盗みみられたりもした。
 その時に母や同級生のKちゃんにちゃんと自分の気持ちを言えてたら人を信じられなくなることはなかったのかもしれない。

「なんで、人のものを勝手に見るの!あんたたち最低!」

 なぜ、このたった一言がなんで言えなかったんだろう。
 それに、母にも、何も言えずに、勝手に自分の夢を諦めたし、同級生のKちゃんにも文句を言えなかった。今思うと本当に悔しい。
 母は母なりに私のことを心配してくれていたのかもしれないと、今では思えるようになったし、同級生のKちゃんに対しては、Kちゃん自身が自分のことをどう思われているのか、Kちゃんの悪口を交換日記で書かれてたりしてるんじゃないかとか気になっていたのかもしれない…。なんて思えるようにもなったが、実はまだ、根に持っている。
 それとは別件で、中学の頃、私は数学の成績だけが他の教科より悪くて(悪いといっても普通) 母が担任の先生に話をしたら、私だけ特別に指導してくださることになった。
 個人指導してくださることから、部活に遅れて参加することになった時、同級生の部活のキャプテンが、他の部員を代わる代わる交代で教室に見にこさせてとっても嫌な思いをしたこともあった。
 私はそれなりに成績は良い方だったので、部活のキャプテンには面白くなかったのだと思う。私だけ〝依怙贔屓〟していると思われていたようだ。そんなことを数日続けられたので、担任には「先生、もういいです」といって個人指導を自分からお断りしたことがある。
 今思うと、自分が気にしなければよかっただけで、ただ気にせずに個人指導を受けていればよかっただけだったのだが、出来なかった。そういった経緯もあって人が信じられなくなっていった。
 極めつけは、閉鎖病棟へ入院していた時退院前に行きつけの美容院にいった。その美容院で髪を切ってもらっている間、知ってる人の声が聞こえたり、いつもは聞こえてこない〝鳥の鳴き声〟や〝虫の音〟と、男性がマイクから指示する声が聞こえた気がした。
 意味なく怖くなって、自分以外の周囲をみれずにいるけど、ぼやけてみえるシルエットは、入院先でみたことのある心理士の後ろ姿と成人支援を受けてた時の担当の人の横顔。でもまさか、こんなところにいるはずがないと思って確かめることもしなかった。
 他には、1度聞いたことのあるSNSで知り合った当事者の人の声が美容院にこだましているようにも感じていた。
 それに、私が入院先で書いていた〝詩〟や〝言葉〟が掲載された本がたくさん目の前にあった。
 〝妄想〟が〝妄想〟を呼び膨らんで、本当はその場を逃げ出したかったのに、私は笑顔で美容師さんと話した。
 美容師さんの対応がいつもと違う不自然さを感じたけれど、自分が病んでるから美容師さんは悪くないと思った。そして、髪のセットが終わった時、小さな小さな声で「はい! 結構です」という声が聞こえた。
 そこで私は、ドッキリカメラのようにマイクとカメラが仕掛けられ、美容師さんはマイクで指示をされていたんじゃないかと思ったのだ。
 そのことがあって、私はさらに誰も信じられなくなってしまった。
 そういった経験があるから、私は今だにみんなにテストされてると思ってしまう。シンクロ二ティが酷くなると、身内でさえも、みんなで私をテストしてるのだと思うようになってしまった。
 あの日、美容院で暴れてみればよかっただろうか? マイクがないかどうか調べればよかったのだろうか? ぼやけてみえるシルエットをちゃんと誰か確認して、人違いだと思い知ればよかったのだろうか?
 私は自分が病んでることを認めたくなくて、確かめることさえしなかった。だから私は7年経った今でも
「あの時実はテストしてたんだよ」
って、誰かに言って欲しいとずっと願っている。

 この苦しみをわかってくれる人は、全くいないとは思っていない。人類の数パーセントの割合で私と同じように感じている人はいるだろうと思う。だからこそ、このことをあえて掲載した。
 それに、私は、転載している〝思い〟を抱きしめながら、11年前から日々を過ごしてきた。それは、今尚続いている。
 だからこそ〝生きる意味〟を問い続けることにもなった。ということも付け加えておく。

 後、転載している文章の最後のくだりに関して、思い出した〝事実〟があることもここに記載しておきたいと思う。

 実は、私が美容院で髪を切っていた日、息子が当時通っていた特別支援学校で、当時、発達障害の業界で有名だった支援者の方の講演会が開催されたことを、数日後か当日に気がついた。その講演会には私の知っている当事者の人も登壇されたようだった。
 だからこそ、美容院での出来事は、私の〝気のせいでもなかったことに気がついたのだが、誰にも話していなかった。ただ、美容室で不穏になった気持ちは、当時入院し通院していた、益城病院の臨床心理士の方へ伝えたことはあった。そして、その後、特別支援学校で登壇された某有名支援者がいらっしゃった施設の人たちが、バラバラになってしまったという訃報を聞くことになった。
 それは、私とは別件で〝問題〟が起きたからだと後日知ることになった。そして、それらのことから、私が美容室で感じたことは〝気のせい〟でもなかったのだと思うようになった。そして、なぜ、私が〝テスト〟されているような出来事が自身の身の上に起こっているのかというと、それは、私の身の上に起きている症状がどういった起因であるのか調べるためだったのだと思うようになった。
 要するに、私の身の上に起きていることを調べるためには、本人が気がついていないことが前提で、人体実験しないとわからないのが〝精神疾患〟や〝発達障害〟だと気がついたからだ。
 何故私がそう思うようになったかというと、閉鎖病棟へ入院した中で知り合った人たちの中に、実際の診断名とは違う人が紛れていることにも気がついていたからだ。そして、精神疾患や発達障害の特性についての知識があれば、演技をすることで〝偽りの当事者〟になりすますこともできると思ったからでもある。だから、私は、嘘をついていると思われていたんじゃないかと思うにいたった。そして、私の身の上に起こっていることが実際には、〝精神障害〟なのか〝発達障害〟なのか、それとも私が演技をしているのか…ということを調べるためかもしれない…。と思い、自分を嗜めるようになり、更に、自身を抑制するようになっていたと思う。そして、そういった抑制が体調不良に繋がってしまう原因でもあったように思う。
 ただ、私はそれは墓場まで持っていかなければならないことなんじゃないかと思い、自分の中でどう処理していけばいいのかも、ずっと一人で模索していた。そのことがどういうことなのか、医療関係者や支援者又は、私の治療にあたり、よかれと思い協力していた人たちが存在するとするなら、私がどれだけのことを抱えて生きていたのかどうかを自分の身に置き換えて考えてもらいたいと思う。恐らく、怖くなるはずだ。そして、私と同じように感じている方たちで、私の感じていたことを知ることで、自身の中で蠢いていたモノの突破口になるといいなと思う。



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