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私の「幸せ」の行方

私は幼い頃から学習障害で学校の勉強ができなかった。
クラスメイトから立ち遅れ、勉強はもちろんスポーツもろくにできずドッチボールやなんかの球技は特に苦手だった。

それで体育の授業の時、「お人形さん」とクラスの学級委員長に言われたことがあった。私はその、なんでもできる優秀なクラスメイトに密かに憧れていた。
絵も上手く勉強も学年一位で体育が少し苦手な男子だった。
だから「お人形さん」と言われた時、深く傷ついた。
今でもよく覚えているのだから、かなり根が深い出来事だったんだと思う。

私はずっと幸せを感じることができずに、自分が不幸だと思いながら子供時代を過ごした。いつも人より遅れて物事を理解する、そんな自分に腹が立った。

だから努力するようになった。計画表を完璧に作るのだ。
朝起きてから眠るまで何をするのか忘れないように表を作った。
予定がびっしり詰まっている。
しかし問題が起きた。その予定すら忘れてしまうのだ。

当時、宿題を忘れる生徒は授業中、教室の後ろで正座しなくてはならない決まりがあった。私は常連で、毎日のように正座していた。
クラスメイトはそんな私を見て苦笑し、先生からはそのうち名前を呼ばれずに「ばか」と言われるようになった。

今思うと、人生の中で恥ずかしいと一番思ったことをあげるとすると、この「正座している自分」だ。

ここまでとても不幸なことを書いてきたけれど、今の私にとっての幸せの土台は全てここからできてきたのだと感じている。

あの時、しんどかったから、あの時恥ずかしかったから、あの時悔しかったから。
それらは全て、その後の人生の原動力になっている。

私の両親は私が14歳の頃離婚した。
その時も同じだった。他人の目が気になって恥ずかしかったし悲しかった。長い間仲の悪かった両親を見てきて、だから私は大人になったら絶対幸せな結婚をするんだと考えるようになった。

私はまたネグレクトの被害にも遭っていた。
母親が日々の苛立ちを私への暴力で埋めるようになっていた。あまりにも理不尽な行為だった。そしてこれもまた「大人になったらこんな人間には絶対ならない」と誓うようになった出来事だった。

10代は不幸なことだらけだった。
これらを全て肯定はできない。事実は残酷なことだらけだ。
ただ、言えるのは20代になった時、それらが爆発した。

自立した後、私は日々、幸せになってやるぞという気迫の中で生きていた。
誰よりも幸せになってハッピーな毎日を過ごして、笑ってやる。
「それが私を不幸にした全ての出来事や人間たちへの復讐なんだ。」

仕事に邁進した。根っからの飽き性で仕事先を転々としてきたが、幸運なことにバブル時代も手伝って仕事がなくなることはなかった。
20代は本当に仕事ばかりしていた。そんな中、私は密かに作家を目指すようになった。

これまでの自分の生い立ちを、ただ不幸なものだけにしたくない。どこかで相殺したいと思っていたのだと思う。

作家になりこれまで経験したことを糧にして生きていきたい。

とても前向きな考え方だと思う。今思ってもどうしてそんな力が湧いてきたのかわからないが、小説を書き続けた。そして色々な小説賞に応募しては落ち、応募しては落ちを繰り返した。しかし諦めなかった。そして愛する人と結婚した⋯⋯。

小説を書いている人にはわかると思うが、書いている時は至福だった。
自分の想像を文字にして人物が生きてくる瞬間は快感だった。
私は仕事で精一杯の人生の中、唯一の喜びを感じた。

幼児期からの悩み・学習障害が回復したのもこの時期だ。

それから私は30歳の時、統合失調症と解離性同一性障害になった。
理由は明らかだった。今までのストレスだ。
ストレスが溜まると違う人格が現れる。または幻覚が見え幻聴が聞こえたりする。
長い間入院したり退院したりを繰り返した。
この時もし独身で収入がなかったら、それも無理だったろう。
私が運よく結婚して、その相手が全てフォローしてくれた。
幼少期に起きた悲しい出来事が理由なのは明らかだったから、夫は私を真摯に励まし介護してくれた。

幸運なことに私の病気はおさまった。治ってはいないが今は比較的平常に生活している。統合失調症が良くなったのは奇跡的なことだった。薬との相性が良かったのだ。

入院している時に素晴らしい人たちと出会ったのもいい経験になった。
介助士さん、看護婦さん、医師、同じ病気を持つ患者さんたち。
みないい人たちばかり(中には意地悪な人もいたが)だった。
そんな中、やはり私は病室にノートPCを持ち込み執筆を続けていた。
その時に書いた作品がある。
「博士とフランソワ、たまに類くんについて」というタイトルの作品だ。
これは小説投稿サイトステキブンゲイ大賞で三次選考まで残った。
とても嬉しかった。少しは誰かに読んでもらってもいいのかしらと思えたからだ。

退院してから数年、相も変わらずルーティーンは小説を書くことだ。
残念だが、まだ芽は出ていない。しかし私の中で確実に育ったものがあった。子供の時にできなかった努力を続けることの喜びだ。

また私は絵画も描いていた。それも喜びの一つだった。頭の中で生まれてくるイラストはどれもみな勇気を自分に与えてくれる大事なものになった。
独学だから下手くそだけど描いている時も楽しい。
今はお休みしているがまたいつか描きたくなった時のために道具は大切にしまっている。

私を救った、私を幸せにしたのは文化と人だった。

本を読み、憧れ、絵を鑑賞して、憧れる。他人と接し話す機会も大事になった。いい意味で刺激してくれるからだ。それは人生の宝物を作る機会をくれる。

本当の幸せは死ぬまでわからないと思っている。
でも今の私はどうだだろう?
少なくともどうすれば幸せになれるのかを知っている。
知っていれば目標が持てる。行動を変えられる。

だから私は今、幸せだ。

助けくれた人たち、助けてくれている人たちに感謝を込めて⋯⋯。
2023年10月24日 水瀬そらまめ




#ウェルビーイングのために

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