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掌編「シロクマはひとりぼっち」

 シロクマが目を覚ました時には、既に海岸から遠く離れていた。泳いで戻ろうと思えばそれも出来たが、シロクマは流氷と共に行く事にした。周りにはまだ氷の塊がボコボコあって、見渡す限り氷海が続く。たった今シロクマが寝そべっているのと同じくらい大きいのもあるが、小さいのもたくさんある。大きいのは教室かリビングルーム程、小さいのはレジャーシート位だろうか。ただ、全部が全部真っ白だ。

 シロクマは自分の毛並みよりも純粋な白を持つ氷の地面へ鼻先を寄せた。冷たくて気持ちがいい。彼は眠い目を覚ますとき、いつもこうする。

 彼は大きくて厳つい見た目から想像するよりも気立てのよい、それでいて少し臆病なシロクマだ。同じ年代のシロクマたちが海岸で戯れている時も、叔母が氷海体操をしている時も、一緒にはやらないで、いつもそっと見守っている。もしも誰かが溺れたりケガをしそうになった時に備えて、誰に頼まれたわけでもないのに、みんなが遊びに飽いて帰って来るまで見守っている。ただ、友達というわけではなかった。

 彼には友達と呼べる存在がいなかった。誰かが彼を除け者にしたのでも、彼が自分からみんなを避けたのでもなかったが、どういう訳か友達が、いつまで経ってもいなかった。

 みんなが笑っていれば彼も笑顔だった。みんなが楽しそうに遊んでいれば彼も楽しかった。だが何故だかいつも彼は一緒に遊ぶ輪の中へは入っていなかった。

 彼がその一点に気が付いたのは、なんでもない夜、寝床の遠くで氷山の一角がガラゴロと崩れる音を聞いた刹那だった。ウトウトと夢の入口へ落ちようとして、音に妨げられ、あ、と再び意識が目の前の現実へ舞い戻った瞬間に、ひょっとして自分は独りきりなのではないだろうかと、初めてそう思ったのだ。

 彼の面倒を見てくれる叔母のシロクマは、少し先の寝床で今頃いびきをかいてぐっすり眠っているはずだ。健康的で、快活で、豪快に笑う叔母は、彼にとって唯一の家族だった。優しくて、世話焼きで、彼が幾つになっても心配性を発揮してくる。それがうるさくもあり、だが安心できた。

 彼にとっては唯一の家族に違いなかったが、叔母のシロクマには彼の他にも大切な存在があった。沢山在った。叔母のシロクマはその全員と等しく仲が良いと彼は思っている。それは一種彼にとっても誇りだった。周りから慕われる叔母を持っているという、幸せであった。

 しかし、あの夜、独りきりの自分に気が付いて、彼は途端に困惑した。気が付いた自分は次にどうすればいいのか分からなかったからだ。気が付いて、自分がどうしたいのか、どう思っているのか、正しい心に辿り着けなかったのだ。
 彼は視界の端に自分の白い毛並みを入れながら、ずっと考えていた。横になったまま、首を動かして夜空を見上げた。月は見当たらなかった。その代わり満点の星々が広がっていた。

 北極星は今日も動かない。

 変わらない日々を暮らした。だが夜になると考えていたものが、いつの間にか昼間だろうとご飯の時間だろうと四六時中頭の中を独占してしまうようになった。時々叔母のシロクマが声をかけたが、彼は胸の内を明かさなかった。説明のしようが無かったからだった。まずは自分で答えを見つけよう。そう思って言えなかった。

 天気の良い日だった。近頃ずっと気温が高く、果てしなく広大な氷の世界は、少しずつ崩れていた。新しく出来上がりもしているが、到底追いつけない程に崩れていく。離れていく。みんな泳ぎが得意だから、あっちの氷塊から海岸まで等と言い合っては遊んでいるものの、自分たちにはどうしようもない現実が少し不安だった。

 彼は海岸に立っていた。左右を見渡してみても、今日はまだ誰も遊んでいない。太陽があった。世界は今日も白い。彼は大きな体をゆっくりと運んだ。寝そべるに丁度いい位の氷だった。彼はそこへゆったりと寝転んだ。さっき海水が散った腰の辺りの毛並みを撫でつけて水を弾いた。目を閉じると、海の音が聞こえて来た。深い海を瞼の裏へ想像しながら、彼はやがて眠りについた。

 ふと目を覚ました時には、海岸から随分離れていた。離れた海の上を悠々と流されていた。船乗りにでもなったような気分がした。少しおかしくて、ふんと鼻を鳴らした。のそりと首を起こしてみる。海岸はあっちへ見える。

 泳いで戻ろうと思えば戻れる。そう思った。だが彼は動かない。

 このまま充てなく流されてゆくつもりだった。初めからそう決意して横になった訳ではなかったが、実際海岸を遠くにして、そうすることに決めたのだった。

 シロクマは自分の毛並みよりも純粋な白を持つ氷の地面へ鼻先を寄せた。冷たくて気持ちがいい。彼は眠い目を覚ますとき、いつもこうする――目を覚まそうとするのは建前で、本当は何かに顔をくっつけると安心するのだ。懐かしくて、安心した。

「愛がわかればなあ~」

 そうつぶやいたシロクマの目から、涙があふれた。


                            Fin

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