見出し画像

田んぼの真ん中にMac Book pro

こうやっていいねを目指さない文章をとにかく毎日書こうということをつづけていると、目指さないようにこころがけるってだけで、いいねをもらうことは嬉しいので、しないでねって言っているわけではない。いいねは共感のしるしで、共感を望まない文章ってなんだろうっておもうけど、資料などは共感を目的としていないので、今書いている文章も記録することや続けることが目的としたら同じだなって思う。自分史にもなっていない日記。消えてしまいそうな自分をつなぎとめるために自分が必要なものをこうやって書き綴ることはだれかのためじゃなくても役に立っている。アナログで書く日記は全然続かないけど、これは2ヶ月経っても続いているのでブログとかこういう形式の方が合っているみたい。良くも悪くもペンを持つことよりパソコンに向かうことのほうがハードルが低いし、mac book pro のキーボードの打鍵音がすきだったりするのも一役買っている。続けるためにハードルをさげることって大切なんだ。

言葉の役割は、共感を呼ぶことだけじゃない。むしろ共感を呼ばない文章のほうが歴史は長い。記録すること。そういう文章は広く流布された方が良いものだけど、そもそもネット上に上がってくる文章と冊子で印刷されるために書かれた文章とは役割が違う。
役に立って便利なものが重要視されるけど、役に立たなくて不便なものが必要ないことはない。役に立つとか便利だとかいう価値基準だって誰が決めたものやらわからない。最新のMac Book proが田んぼの真ん中にぽつんと置かれていたところでだれも便利だとも役に立つとも思わない。それよりコップ一杯の水の方が何十倍も役に立つことは間違いない。それ自体も偏った考えなのかもしれない。

ここまで文章を書いて水鏡が思い浮かんだ。何も音のない空間で水面にぽつんと落ちてきたものを全て受け止める水鏡。このイメージのつながりができることに理由はない。ふと、とかなんとなくそう思う、っていうのは、理屈じゃないといって誰の説得もできない。誰にも伝わらない。いつかその理由がわかる日や繋がる日が来るかもしれないけど、今はわからない。それを口にした時になんで?と聞かれると辛くなる。そういうことが何度も何度も続くと、そのイメージを口にすることを諦める。「なんでだろうね」と交わす術も持てなければ、「変だよね」と笑い飛ばすこともできない。ただ私は美しいと思っている。美しさにも理由が必要なのかもしれないけど、田んぼの真ん中にあるMac Book proは絵として面白いし、田んぼの真ん中にあるコップ一杯の水もなにかがおこりそうなのか、もしかして何か起こった後の名残なのかもしれない。そう思いながら何かを置いてみること、スイッチを押してみたら言葉が生まれてくるのかなと思う。
何かが起きること、何かを想像することは背後にどんな理由や目的があっても美しいと思っているのかもしれない。


サポートあれば嬉しいです!皆様の心の励みになりますように。