黒猫と寒椿

お正月も近い冬のある日、このまちで流れる唯一の川に水鳥が4、5羽浮かんでいた。くだっていくとすぐにせき止められているこの川は小学校の校歌では緑輝く、とうたわれているけど、もう半世紀以上前から生活用水の影響で水底は全く見えない。

スマートフォンを取り出して鳥たちをカメラに収めようとした。スマートフォン?カメラ?電話のマイムがまだ受話器をかたちどるように、言葉が現実に追いついていないことがあることに気づく。言葉だけでもまだカメラという四角く黒い箱から覗くレンズ越しのファインダーであって欲しい。

空気を羽に溜めて浮かぶ鳥たちをぼうっとながめていると、浮き輪でういている子供たちと重なった。
波に揺られながらふぁあと浮力でうきあがってくる心地よさと同時に、はるか遠くに見える海岸線を見て、もう足が地につくことはないのかもしれないと不安になった感覚を思い出す。
水鳥たちは自由に動き回る。鳥は空気を羽の中に含み、その浮力と足さばきでみずすましのようにうごきまわることができる。浮き輪で浮かぶわたしはただただ、波の言われるがままにうかび続けることしかできなかった。

音楽フェスでたこ焼きを売ると、一年分以上の売り上げがあるんだよ、なんて話をきいたときに、このまちのお正月を思い出した。全国でも有数の神社があるこのまちは、正月になると参拝客がどっと押し寄せる。
参道口からつながる地元の商店街を歩くと、観光客たちは苦笑いをしながらここにはなにもないね、と言葉を投げ落としていく。その商店街に住むわたしはそのことばに心を幾度となく切り刻まれてきた。呪いのことばだった。
子供の頃は店舗が軒を連ねて活気があったが、今は何店舗かがあいているだけだ。潰れたお店は次から次へとシャッターを下ろし、更地になり、そして駐車場になっていく。どこにでもある、よくある光景だ。

そんな、コロナのあの時期だけは違っていた。
外出禁止のお正月に誰もいない参道の階段の一段目から、お土産物やの商店が並ぶ通りを振り返る。だれもいない。生まれて40年になるけど、誰もいない参道と階段を見るのは初めてだった。わたしは、誰もすれ違わない階段を一気に駆け上り、息をきらした。日課の散歩もおちおちできずに外出することも控えていたので、体力は落ちている。閉まった門の前で息を整えて、まちを見下ろした。
雲ひとつない、いい天気だった。

大門から引き返して階段を降りると、黒猫がこちらをみつめていた。
たいてい猫は近づくとにげるので、駆け寄りたくなる気持ちをおさえてそっと座り込み、様子を伺う。それで、逃げ出すようなら、ごめんね、と言ってそのまま立ち去るのが礼儀だった。

その黒猫はこちらに向かってきた。人懐っこい猫だった。足元に擦り寄ってきて、石段にころんと仰向けになってお腹をむけてきた。そっと手を伸ばしてなでてやった。しばらく猫で暖をとって、またね、と言って去ろうとしたら、猫が後ろからついてきている。
ついてくる猫はかなり珍しい。足を止めて遊ぼうと思って振り返った。
猫は、ひとなきして、こちらにくるのかと思えば隣をすり抜けて路地裏に入っていった。

後をおいかけていった先には水のすこし溜まった池のような場所があった。
その先に、椿の花が咲いていた。ここにしかない園芸種の椿だった。いちめんに花びらが広がり鮮やかな赤い絨毯となっていた。私はそこに足を踏み入れて、花びらを踏み締めた。
猫がひとなきすると、風がびゅうとふいてきて一斉に椿の花が舞い上がった。

変わらずにいられないのになぜも変わることにためらってしまうんだろう。
なにも変わらないでいるということはできない。衰え、鈍り、やがて死に至るのみ。花や樹木はかわらないままでは死んでしまう。切り落とされた瞬間に死へのカウントダウンがはじまる。死なないためになにができるのだろう。園芸種は、手を入れ、愛を与え新しい芽を伸ばし、根をはり、古くなったものを振り落として新しくなっていく。

木になりたいと思った。この場に花を撒き散らす椿の木のように常に新しく花を咲かせ、そして冬に力をためて衣を脱ぎ捨てていく。
がらんどうの手入れされずに放置された空き地や空き家。
天井が落ちて朽ちていく、住人を失った民家たち。
なにもせずに閉じ込められてしまうこの島国で、わたしたちは生きているのかしら。ゆるゆるとしらないうちに首を締められていつのまにか命をうばわれてしまいそうな錯覚を覚えることがある。死んでいるようにいきているような気がしているのに、選ぶとか選べないとか、立ち去ることも飛び立つこともできずに止まり続ける。
黒猫の姿はもうどこにもなかった。

帰り道にまた川沿いをとおった。水鳥はあいかわらず浮いていた。彼らは生きているのかしら、それとももう、息をしているだけなのかしら。
植物も動物もただ生きることができる。
ただ生きることができないのは唯一、人だけだ。


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