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お金

缶ジュースを自分がいつから飲むようになったのか定かな記憶はない。

S29に日本初の缶ジュースが東京限定で発売され、32年には全国発売。42年には自動販売機が登場していたらしい。コカ・コーラが缶の自販機を始めたのが45年で、以後急速に広まったという。

36年生まれの僕はこの高度経済成長の恩恵に浴していたはずだが、普及するのに時間がかかっただろうし田舎であったから、家でお中元とかのいただき物か何かのオレンジジュースの缶に2箇所穴を開けて飲んだ記憶はあっても、小学校時分に自分で缶ジュースを買って飲んだ記憶に乏しい。

高校時代でさえ部活帰りには店に入ってビンの「チェリオ」を飲んでいた。「ファンタグレープ」が好きだった記憶があるが、それを自販機で買った記憶もいつだったか、全く乏しい。大学の頃にはそれは当たり前のことになっていて、むしろ「缶麦茶」が売り出されていて、「そんなのわざわざ買わない」と思った覚えはある。


子どもの頃は圧倒的にビンの時代だった。

向かいの家で牛を飼っていたので、朝、一升瓶を持って、その中に牛乳を入れてもらっていて、よく使いに出された。

オヤジが飲んだビール瓶を洗って持って行くと、5円で引き取ってくれた。ほとんど小遣いなどなかった僕らにとって、微々たるものであっても何かわくわくするような、それはちょっとした「お祭り」のような出来事だった。

今はどうなのかと思って調べてみると、酒屋さんなら(大型スーパーではダメらしい)5円で引き取ってくれるとのことだった。もともと容器代が5円上乗せされて販売されているので、それが返却される。かっこよく言えばそれは、リターナブル容器のデポジット制と言うのだそうだ。


さて時は流れ、就職後2校目の学校に赴任した頃、缶飲料の缶の投げ捨てやリサイクルが問題になり、学校で設置した自動販売機にデポジット制が導入され、飲み終わった缶を投入すると10円のキャッシュバックがある装置が併設された。

勿論それは学校が支払うわけではなく、自販機を設置した業者が支払う。業者は自分の自販機の商品である缶ジュースの購入に対して10円を支払うわけである。

ところが、豈に図らんや、生徒たちはお金がもらえるとなると、どこぞで拾った缶や家か持ってきた缶を投入して10円をせしめてしまう。

当然と言えば当然とも言える事態?

学校としても「それはダメ」と注意を促すが、監視しているわけにもいかない。結局、デポジットを条件に自販機の設置を許可したこともあって、これはたまらんと業者が自販機の撤退を宣言して事態は収束した。

生徒に環境に対する意識とお金とを天秤にかけさせるような、何だか後味の悪い結末だった。

僕らの生活の津々浦々まで「お金」は浸潤してしまっている。
これを人間性の問題とセットで論じるのはなかなか厳しい。聖人君子のように生きたいが、お金は欲しい。

恐らく、この問題は個人の責任に委ねられるだけのものではなく、製造する企業や販売する店舗が負うべき責任について考えるのが、妥当なののだと思う。
無人販売所の物が持ち去られたのを人々の倫理観の堕落と言うのは正しいが、それでいてそれは正しくはない。売ってお金を得るなら管理したい。防犯カメラで監視して、警察に持ち込んでも、それでは自分の責任を放棄して犯罪者を自ら生み出しているようなものではないか、と。

作るなら、作ってお金を得るなら、その社会的な影響も考えたい。ペットボトル、ゲームソフト、冠婚葬祭、アダルトビデオ、メタバース・・、話が飛躍してしまったか?


ただ、僕らも言ってみれば資本の「罠」に嵌って、「消費者意識」というものを「ぞっこん」身につけてしまった感がある。

こんな話を耳にしたことがある。
ある観光地で登山客が捨てるゴミが問題になり、トイレなどの運営も含めて、そうした問題に対処するために入山料を取る事を決めた。
それで「環境美化」は実現したかというと、そうではなかった。かえって大量のごみに悩まされるようになった、と言う。

何故かと言えば、「金を払っているんだから、ゴミの処理は金を受け取っている者がするべきだ」という考えが、マナーの感覚が失わせたからだという。これがまさに「消費者意識」なのだろう。「金を払えば『権利』が得られる」という考え方である。


お金は、おっカネー(いつかも使った寒いダジャレだ)!


僕も、「お前のくだらぬ授業を受けるなら、授業料を返せ」と言われないように、心して己を磨かねばならない。んっ、高校は無償だったか?

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