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第53話:アリとキリギリス

本当のところはよくわからないが、最近の昔話は昔と随分様変わりしているらしく、例えば「桃太郎」は、鬼ガ島に行った桃太郎は鬼に悪行をせぬように説得し、それを鬼も受け入れて、そこでみんなで仲良く暮らすというエンディングになっていると聞く。

ギスギスせずとも生きて行けるこのごろの世相では「勧善懲悪」よりも「和ヲ以テ尊シ」とすることが、より重要な価値として求められるということになるのだろうか。歌ではないが、世に連れて昔話も変化して行くもののようである。


もう何十年も前の話になるが、ある女生徒が入試の小論文の添削指導をして欲しいと言ってやって来た。「過去問でまず書いて来てごらん」と言ったところ、彼女は自分が受ける短大の問題だと言って「蟻とキリギリス」の話を持ってやって来た。

暑い夏、蟻は汗水垂らして一生懸命働き、その姿をキリギリスはバカにして遊び暮らしている。ところが冬になって困り果てたキリギリスが蟻を訪れて助けを乞うという、あのお話である。

この話は懸命に働くことの大切さを説き、怠けることに対しての戒めを教えていると信じて来たのだが、彼女の持って来た問題は少々趣が異なり、こんなふうになっていた。

『イソップ物語』に「蟻とキリギリス」の話がある。
冬になってキリギリスが蟻に助けを求めると、蟻は「夏中おもしろおかしく歌って暮らしていたのですから、冬もそうなさったらいいでしょう」と答えている。
この話から考えたことを六百字以内で書きなさい。

敬語の使い方が慇懃無礼で、これではこの蟻を支持する人は少なかろうと思う。彼女は勇敢にも「それでも蟻!」と書いて来たが、こうした入試問題が登場して来る背景にも、「蟻」であることを必ずしも是としない現代の風潮が影を落としているのかもしれないなどと思ったりもした。

働き方改革の世の中。昨今では「蟻君」は甚だ分が悪い。「働きバチ」同様、世の「お父さん」に冠せられる形容詞としては、寂しい呼称である。

「一億円当たれば辞めたい人ばかり」

そんな川柳をかつて見かけたことがあるが、好きで「蟻してる」人も多くはなかろうに、懸命に働けば「企業戦士」「会社人間」と呼ばれ、定年を迎えれば、愛する家族から「粗大ゴミ」だの「濡れ落ち葉」だのと邪魔者扱いされる。

ラジオで聞いたのか、何かで読んだのかも忘れてしまったが、ネットオークションについて話している母娘の会話で、母が娘に「ブドウも売れるの?」と聞くと、娘が「お父さんも売っちゃおうか」と言ったと言う笑い話が紹介されていたりなんかした。

「お父さんて、なんてかわいそうなの」

と、お父さんの一人であるところの僕は思うのだが、「働かざる者、食うべからず」という理屈がイデオロギーの対立を越えて正当であった時代に比べると「生きにくい時代になった」というのが、真面目に働く者の実感ではなかろうか。


そんなお父さんにトドメを刺す、こんな話もある。当時まだご活躍されていた永六輔氏が、落語か何かのネタであろうか、ご本人が考えたのだろうか、この蟻とキリギリスについて、こんな話をしていた。

暑い夏、蟻は汗水垂らして一生懸命に働いており、その姿をキリギリスはバカにして遊び暮らしていました。
冬になって、そのツケがまわって困り果てたキリギリスが救いを求めて蟻の家を訪れると、何と蟻は夏中懸命に集めたエサに手も付けず、働き過ぎがたたって、何と「過労死」していました。
そこでキリギリスは蟻の集めたエサを食べて一冬を暖かく過ごしましたとさ。

「なんて哀れなんだろう」

と、その話を聞いて僕は思わず大粒の涙を流したのである。

みなさんは蟻とキリギリス、どちらを選ばれるのだろうか。「それでも、どちらかと言えば蟻かな?」と保守的な僕は自信なく思うわけだが、心ひそかに毎年宝くじにキリギリスへの夢をつないでいたりもする。

結局、働き続けるしかない。迷いながら。
それしか能がないから。
金も稼がねば生きていけないから。

「アリギリス」という生き方が、一時期言われたような記憶がある。働くばかりのアリでもなく、遊ぶばかりのキリギリスでもなく、要領良く生きようということなのだが、それがうまくできない。
簡単に言えば単なる「不器用」なだけなのである。


に打ちひしがれる僕を慰めるかのように、息子は毎晩、ビールを冷蔵庫から引っ張り出し、甲斐甲斐しくお酌をしてくれた。いい奴である。

家に帰ったら、ビールがある

それが「お父さんの幸せ」。カミさんには、是非この幸せを取り上げないように切なる願いと祈りを捧げ、この愚話を締めくくりたい。

(土竜のひとりごと:第53話)

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