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短歌

朝の雨 夢に重ねた唇のかたちを探している雨だれ

62歳のジジイの作る歌ではなかろうと叱られそうな・・。


空前の短歌ブームだ!
と、ちょっと前のNHKのクローズアップ現代でやっていて「へー、そうなんだ」と思いました。
読むのは入試問題ばっかりの昨今で、ろくに短歌の現状も知りません。そんなことをそんなことでやっと知ったのですが、岡本真帆さんという方の次の歌が話題になっているらしく、

ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし

この下の句「傘もこんなにたくさんあるし」の部分をいろんな人が作り、Twitterに投稿しています。ネットから拾ってみると、例えば、

ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、凍ったいくら風呂で解かすし
ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、キャベツが花を咲かせているし
ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、巨大な海苔巻き完食するし
ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、パスタと一緒に ソース茹でるし
ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、猫の頭を足で撫でるし

などなど、各々の「自分のズボラ」をこの歌に嵌め込んで応じています。ひとつの「遊び」ではありますが、近現代、個人の中に閉じ込められがちだった短歌を、そこから「解放」したような小気味良さが感じられたりします。

また、こうした動きは昔で言えば、いわゆる「付け句」に相当するでしょうか。短歌にはもともと贈答・挨拶・遊びの伝統もあったわけですから、作者の意図は別としてそうした短歌のあり方の再発見につながっていると言えるかもしれません。


「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

俵万智が「サラダ記念日」を引っさげて彗星の如く現れた時、どちらかと言えば半分否定的なニュアンスで「ライトヴァース」という言い方を用いる人も多かったのですが、停滞している「短歌」に新しい波を起こしたことは間違いないと思います。

前に書いたことがありますが、俳句と違って短歌は七七の長さの分だけ「思い」が乗せられます。「思い」は「重い」ものになりがちです。それは多分(特に明治以降)短歌が日記的な「一人称」の語りを中心としたからだと思います。

自分がかつて作った歌を読み返すと、かつて書いた日記や朝になって読み返してみたラブレターを見るような「恥ずかしさ?」があったりします。
冒頭の「夢に重ねた唇」の歌も自分の人格が疑われるのではないかと人に言うのに躊躇してみたり・・。
俳句が世界に広がり、テレビで話題になるのに対し、短歌は重く、閉鎖的でした。俵万智の歌はその「重さ」を軽々と飛び越えて見せたわけです。


ただ、慌てて拾い読みをしたにすぎませんが、岡本さんの歌はそうした「軽さ」だけでもないような気がします。「故意なおかしみ」を狙う感じはありません。

ていねいなくらしにすがりつくように、私は鍋に昆布を入れる
回送の電車の中でねむるときだけ行き着けるみずうみがある
平日の明るいうちからビール飲む ごらんよビールこれが夏だよ
教室じゃ地味で静かな山本の水切り石がまだ止まらない

素材の具体性をうまく生かしつつ、日常の小さな気付きを「一人称」で歌いながら「三人称」の匂いがする、それが、読者の心に滑り込み、共感を誘う。そんな感じが魅力なのだろうと思います。

以上、まったくあてずっぽうな感想でしかありません。
でも、短歌が広く、深く、おもしろく、たくさん歌われるようになればいいなと思います。
岡本真帆さんのnoteを見つけました。僭越ながら紹介させていただきます。


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