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真如堂、黒谷さんの会津墓地、新撰組…

今回はすこし、ここまでの話の脈絡を離れて、日々のこと。

今、私が住んでいるのは、前にも書いたが、左京区の真如堂の近くだ。
吉田山の裏手あたりに、神楽岡通りという、人も車もあまり通らぬ割には広い道があって、その付近に住んでいる。

真如堂は天台宗のお寺で、境内には宗祖最澄(伝教大師)の小さな像が立っていたりする。また、その近くには、「京都映画誕生の碑」というこじんまりとした碑があったりする(説明の立て札はなかなか立派)。なんでも、日本で初めての映画撮影となった牧野章三の「本能寺合戦」のロケが真如堂で行われたことを記念してのことだとか。

銀閣寺や法然院のように観光客が多い寺ではないが、静かで美しい境内が広がっている。今は、青もみじと紫陽花と菩提樹、そして沙羅(夏椿)が、ウグイスの調べを背景にしてそれぞれの美を競っている。

ことに、本堂近くにある沙羅の木は、朝ひらいた白い花が夕方には落ちるという、はかない咲き方をする木で、今ちょうど、日々新しい蕾が開いては地面に落ちている。

ところで、この真如堂は、裏で金戒光明寺(黒谷さん)とつながっている。
本堂右には真如堂の墓地(ここには、桃山時代の大画家海北友松が眠っている)があるが、それを横目に見ながらさらに進むと、黒谷さんの広大な墓地に出る。

そして、そのとっつきのところ(黒谷さんの方から来ると、最も奥まったところ)にあるのが、いわゆる「会津墓地」だ。幕末に幕府側として京都守護にあたった会津藩の「殉難者」たちの墓所である。

と、偉そうなことを言っても、そのことを私は、つい最近、日々の散歩の途中で知ったに過ぎない。

この二つの寺のあいだの奥まった場所にひっそりとたたずむこの墓地は、だが、幕末ファンにはそれなりに知られているようで(会津出身の人たちは尚更)、ネットで検索してみたりすると、個々の墓に誰が眠っているかまで含めて、いろいろなことがわかる。

それはそうとして、なんだか奇妙な感懐がやってきたのは、私がつい最近まで住んでいたのが、四条大宮の辺り、壬生寺の近くだったからだ。

もちろん、壬生寺は新撰組の駐屯地だったところ。会津藩と連携をして幕末の京都で、滅びゆく幕府側について戦って、多くの命を奪い、落としている。落命した新撰組隊士は、壬生寺や泉涌寺や光縁寺、あるいは関東の諸寺など、分散して葬られているが、壬生寺は今も、新撰組と深いゆかりのあった寺として多くの人の「巡礼地」になっている。その周囲には、新撰組ゆかりの場所が集まっている。散歩をしていると、よくそういう「巡礼」の人たちを見かけたものだ。

そんなこともあり、以前の住まいにいるときに、これまであまり深い関心を持ったことのなかった新撰組のことを意識することになり、司馬遼太郎の『燃えよ剣』など、再読したりもした。

もともと高知に縁のある家族の中で育ったので、幕末といえば、坂本龍馬を筆頭に、土佐、そして薩長の側の人々の視点からばかり考える癖がついていたが、滅びゆく側に立って戦い、斃れ、追われた人々の側にも、瞑目すべき「生」があったのだということにあらためて思い至ったりもした。

そういう壬生寺の近くから引っ越したら、今度は、いきなり「会津墓地」との邂逅ということになったので、なにやら因縁めいたものを感じたのだ。

黒谷さんには、法然の遺骨が収められている廟もある。法然にも、このところ深く引かれている私だが、そんな話はまたいつか。最初の写真は、黒谷さんの紫陽花。



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