ソレカラ

本に埋もれて京都の片隅で暮らす暇人です。日々のよしなしごとを綴っておきたいと思いたち、…

ソレカラ

本に埋もれて京都の片隅で暮らす暇人です。日々のよしなしごとを綴っておきたいと思いたち、このブログを始めました。若い頃アメリカにいたこともあって日英のバイリンガル。翻訳の仕事なども細々としています。思想、美術、ジャズ、文学、京都についてなど、話題は多岐にわたることになると思います。

最近の記事

ジャズの日々(5)もうひとつ、百軒店/円山町のこと

 前回は、今話題になっている「再開発」のことについて個人的な感想を書いてみた。きっかけは、ネット上でニュース報道を目にしたことだった。  書いている途中で、以前にも、同じように報道が引き金になって百軒店を想起したことがあったことを思い出した。  それは、いわゆる「東電OL殺人事件」が起こったときのことだ。  この事件の報に触れた1997年の春、僕はアメリカに暮らしていた。  1985年からニューヨークにいて、日本のことを思い出す機会はすでに日々減っていた中で、週に一度だけケー

    • ジャズの日々(4):百軒店のこと

       百軒店が揺れている。すでに報道されているように、渋谷に新たな「再開発」計画があるようで、百軒店がすっぽりその対象区域に入っているという。SNSで抗議の声を上げている人も多い。  百軒店はその昔、ジャズの聖地だった。  というと大袈裟かもしれないけれど、その周囲半径数百メートルの界隈にあったジャズ喫茶は一筋縄ではいかない個性派揃いで、どの店にも独自の音と空気があって、日々どこに行こうかと悩むこと自体ひとつの経験だった。そして、音楽館で働いた僕にとって、あの界隈が消えてなくなる

      • ジャズの日々(3): 奄美のひと

        音楽館はそれほど有名だったわけではない。  渋谷には当時、ジニアス、スイング、デュエット、そしてブレイキーといった「主役級」が集中していて、音楽館は、コアなジャズファンたちの脳内地図の上では「脇役」に近い存在だったと思う。ロック喫茶として名を馳せたブラックホークが真下の一階にあったこともその存在感を薄める効果を発揮していたかもしれない。  マスターも、実はそれほどジャズに詳しい人ではなかった。ブラックホークがガンガンとレコードをかけるので、とても静かな喫茶店など2階では

        • ジャズの日々(2): モンクが亡くなった日

           1982年2月18日の話をしよう。  日付まで覚えているのは、その日に僕がセロニアス・モンクの訃報に接したからだ。アメリカでは17日、だが日付変更線を跨いだ日本でその報が流れたのは18日のことだった。朝刊だったか、夕刊だったか記憶がさだかではないが、新聞でそのことを知った。  この日、東京は穏やかな晴れだった、と思う。  渋谷の道玄坂を登って右に入った辺りに百軒店〔ひゃっけんだな〕という「大人の街」があり、今もあるが、当時僕は、その中にあった音楽館というジャズ喫茶で働いてい

        ジャズの日々(5)もうひとつ、百軒店/円山町のこと

          ジャズの日々(1):京都烏丸丸太町

           1973年のことだった。  中学2年生だった僕は、3人のともだちと一緒に、ジャズ喫茶にいた。 季節がいつだったか、はっきりとした記憶がない。ただ、そのとき僕たちは、詰襟の制服で、コートは着ていなかった。だからたぶん冬ではなかったと思う。  京都御所のすぐそば、烏丸丸太町の南西角にあった「ケント」というジャズ喫茶だった。3階か4階建てのビルの一階にあったが、今はもうそのビル自体が影も形もない。当時京都には、多くのジャズ喫茶があったが、そのほとんどは、ケントと同じような運命を辿

          ジャズの日々(1):京都烏丸丸太町

          JAZZの世界の不思議なカタカナ名

           英語話者として、ずっと気になっていることがある。ズバリ、ジャズの世界で流通しているカタカナの固有名の数々だ。  おそらくは、どこかの時点で誰かが間違った表記をしたことに誰も気づかないままにそのまま定着してしまったということなのだと思うけれど、どうして修正されていかないのか。不思議だ。  例えば、レスター・ケーニッヒ。コンテンポラリー・レコードの創設者であり、歴史に名を残す大プロデューサーだ。英語だと Lester Koenig。なぜ彼の名前が「ケーニッヒ」となってしまっ

          JAZZの世界の不思議なカタカナ名

          ジャズとトロンボーン

           最近、出町柳のラッシュライフというジャズ喫茶によく通う。  ずっと前から行ってみたいと思っていたので、近所に引っ越してきたことをいいきっかけにして、週に一、二度、通うようになった。カウンターだけのこじんまりした空間で、席数が少なく、常連さんたちが来ていると、なかなか高密度の空間だが(物理的な意味ではなくて、まったり感が)、居心地はとてもいい。  老齢に差し掛かった感じのお二人——男性と女性だが、ご夫婦なのかパートナーなのか、どちらが店主さんなのかもわからない——で切り盛りさ

          ジャズとトロンボーン

          『砂の器』と実験工房

          獅子文六のことを少し調べていたら、彼のパリ留学時代は、第一次大戦後で、フランが円に比べて安く(ユーロのはるか前の時代、為念)、日本人が留学しやすい環境が整っていたという話が出てきて、フランスもそうだったのかとちょっと驚いた。  というのも、その時代、つまり第一次大戦後のヴェルサイユ条約の下、ドイツ・マルクが暴落し、日本からの留学がしやすかったという話をどこかで聞き齧った記憶があったからだ。京都学派の精鋭たちが次々とドイツに行き、長期滞在することができた一因はそれだったというこ

          『砂の器』と実験工房

          コーヒーのこと、獅子文六のこと。

          コーヒーが好きだ。というか、毎朝、コーヒーがないと1日が始まらない。 そういう人は山ほどいるにちがいない。 だが、どういうコーヒーが好きかとなると、深煎り好きの私は、もはや「時代遅れ」なのかもしれない。というのも、いま、街のそこ此処にできている小ぶりのコーヒースタンドとかショップでは、どうやら「浅煎り」が主役のようなのだ。 それが京都だけのことなのかどうかはちょっとわからないけれど、実際、散歩の途中に立ち寄ってみると、深煎りのコーヒーを出すところが少ない。私の探索の範囲に

          コーヒーのこと、獅子文六のこと。

          真如堂、黒谷さんの会津墓地、新撰組…

          今回はすこし、ここまでの話の脈絡を離れて、日々のこと。 今、私が住んでいるのは、前にも書いたが、左京区の真如堂の近くだ。 吉田山の裏手あたりに、神楽岡通りという、人も車もあまり通らぬ割には広い道があって、その付近に住んでいる。 真如堂は天台宗のお寺で、境内には宗祖最澄(伝教大師)の小さな像が立っていたりする。また、その近くには、「京都映画誕生の碑」というこじんまりとした碑があったりする(説明の立て札はなかなか立派)。なんでも、日本で初めての映画撮影となった牧野章三の「本能

          真如堂、黒谷さんの会津墓地、新撰組…

          レッサー・アート、サブカルチャー、大衆文化、限界芸術・・・

          さて、モリスから小野二郎へと受け継がれた「レッサー・アート (lesser art)」という言葉、今では、なぜか英語でも lesser art(s)という言葉はあまり使われなくなっていて、もっぱら minor art(s) など他の言い方が主流ではあるけれど、いずれにしても、いわゆるハイ・アート=高級芸術ではない、もっと日常の生活に近い、クラフトやデザインなどを意識した言葉であることにはちがいない。 「サブカルチャー」という言葉が、60年代初期にはまだ目新しく、日常化してい

          レッサー・アート、サブカルチャー、大衆文化、限界芸術・・・

          津野海太郎、ベンヤミン、サブカルチャー

          小野二郎と晶文社のことについて知ろうと思えば、それなりにいろんな文献や資料がある。たとえば、すでに挙げた世田谷美術館での展覧会カタログは格好の入り口だろう。身近な人たちが見た小野の人柄について知りたければ、1983年に晶文社から出された追悼文集『大きな顔』が素晴らしい。もう絶版になっていて、古本でも少し値が嵩むけれど、私は図書館で借りて読んだ。 もう少し突っ込んで、彼の仕事ぶりや晶文社という出版社の成り立ちについて知りたいと思えば、私が見渡した限りでの話だけれど、津野海太郎

          津野海太郎、ベンヤミン、サブカルチャー

          趣味の思想化ー晶文社文化と西武文化

          前回、小野二郎が「趣味の思想化」ということを主張していたことに触れた。 思想もなにもかもが趣味化=ブランド化する、言ってみれば「思想の趣味化」が進んで空洞化していく80年代を前にして、彼は、それとは真逆のことを言っていた。「趣味」という言葉が、「思想」が生き方の根源にかかわる重さや真剣さをともなうものであるのとは対照的に、軽く、挿話的で、生の余白を埋める出来事だというニュアンスを持っていることは、誰しもが感じることだろう。二義的と言い換えてもいいかもしれない。 (かつて、

          趣味の思想化ー晶文社文化と西武文化

          小野二郎、ウィリアム・モリス・・・

          晶文社が二人のキーマンによって創業されている。中村勝哉と小野二郎。この二人は大学時代の同級生で、在学時からいつか二人で出版社を起こそうと話をしていたらしい。実際にそれが実現したのは、小野が卒業後、弘文社で編集修行を数年積んだ後のことだった。 二人の役割分担は明確で、中村が経営を、小野が出版企画・編集を受け持っている。その創業前後の話は、前回触れた世田谷美術館の展覧会カタログや他の文献でも詳しく触れられている。だからここでは繰り返さないが、一言だけ添えておきたいのは、小野とい

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          晶文社のこと

          植草甚一さんのことを書いた勢いで、晶文社のことについて少し書いてみる。 上の写真は、私の本棚の晶文社コーナーのほんの一部だ。 もとより、本の並べ方というのは人それぞれで、扱っているテーマによって分けたり、文庫本や新書というような本の種類によって分けたり、千差万別だろう。だけど大抵は、本棚や収納場所の都合を考えざるをえず、複数の分け方を併用することになるのではないだろうか。 私の場合、洋書の割合が多いこともあって、著者のアルファベット順とジャンルによる分類を併用している。ま

          晶文社のこと

          『対談 植草甚一』を読む

          植草甚一さんの対談集を読んだ。植草さんといえば、晶文社のスクラップ・ブック・シリーズが人気で、私も若い頃よく読んだ。これはだけど、そのシリーズの一冊ではなく、いろいろなところで彼がした対談を集めたもの。あまり古本屋でも見たことがなかったので、先日、大阪の四天王寺の古本市で見かけて、即購入。 表紙にあるように、錚々たるメンバーを相手の対談集。長いものもあれば、短いものもある。初出がどこなのかは残念ながら書かれていないが、あらためて、植草さんが、ジャンルを横断しながら、決して「

          『対談 植草甚一』を読む