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好みがすべて

いい、悪いではなく。
純粋に好みか、好みじゃないか。

それだけで、すべてを選んでいいんじゃないかな?
って、最近思っている。


私は、よく言えば共感力が高く、悪く言えば周囲の影響を受け判断基準がぶれやすい。

自分と似たような感覚の人には「わかるぅぅぅー!」と絶賛共感するし、
自分と違う感覚の人の意見も“好みじゃない”意見じゃない限り「なるほどね、確かにそういう見方もできるね」と納得、理解し取り入れられる。


でも、どうしても“好みじゃない”言動、思考の人は、いる。

そういうものに対し無理にポジティブな面を探すのではなく、「悪い」と否定するのでもなく、「私は、好みじゃないな」で終わらせてもいいんじゃないかな。


とある界隈でそこそこ人気、知名度が高い友人がいる。
なかなかの発信力を誇り、ブログやツイッターを投稿すればアクセスは右肩上がり。


残されたコメントを見ると「さすが○○!」「めちゃおもしろすぎ!」「最高!」「天才!」なんて絶賛の嵐だ。


本人も自覚も自負もあり、「私うまいでしょ」「さすが私」とか言っちゃうタイプの、人としては憎めなくてとても愛嬌のある人だ。
もちろん、わたしも大好きだ。


でも…
その人の発信を読むたびに、おもしろいんだろうな、と思わなくもないけれど、必ずといっていいほどもやもやしてしまう。


発信の内容がどうこうじゃなくて、「なんで(周りがこんなに絶賛しているのに)私はそう思えないんだろう」=「(みんなが絶賛するほどの)素晴らしさが私にはわからない、私がバカなんだろうか」って。


でも、最近気づいた。
人の好みは千差万別。
「たまたま」その人の発信を好みだという人が積極的に絶賛しているだけであって、「たまたま」私の好みがその人のテイストとあっていなかった。
ただそれだけ。


そう考えたら、楽になった。


人が生きていくことは選択の連続。
誰もが自分の“好み”を選びながら生きている。
それでいい。

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