twitterアーカイブ+:映画『秒速5センチメートル』感想:恋と永遠

操刷「私は新海誠作品を過去に一つも見ていないため、かの悪名高き秒速5センチメートル(これで知己が何人も死んだよ)でも今度観てみようと思うが、これも実は「主人公と近い年齢の時に出会わなければ真の効果を発揮しない作品」の一つなのではなかろうかと疑っている。」

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 秒速5センチメートルを初めて観た操刷法師の感想1――「分かる。よく分かる。何もかもよく分かる。が、これほどよく分かる事への感嘆の他は、私自身の心には届かない」

 秒速5センチメートルを初めて観た操刷法師の感想2――「DVD映像特典の監督インタビュー、笑い過ぎて腹が痛い。新海誠が“気持ち悪い”と言われるわけだ。ザ・リミテッド・オタク・インタビュー!!」

 だが、秒速5センチメートルによってコンプレックスを刺激された連中がこの映画から感じたもの――或いは情景――は、この私の前にも同様の形で現れ、同様の影響を与えているのだ。ただし私の場合は複数の違う作品から断片的に、小学校から中学校にかけて。つまり私には免疫があったに過ぎない。


 女装歴も十年を超えるが、秒速5センチメートルに関して友人の彼女(妹だった可能性もある)が提示した解釈――「桜花抄の時点で、明里は既に貴樹の事が好きではない」――に未だに首を捻っている。その解釈を裏付けるような事例や金言は私の中には今のところ見当たらない。

 電車が遅れる事は、貴樹の生きる速度もまた明里に遅れ始めているという事を暗示する。しかし、遅れた貴樹を待つ所から既に「既に好きではないが理想的な女を演じてあげている」のだとすれば、七時を過ぎた瞬間に劇的な心境の変化があったか、或いは単に距離故の心変わりをしていたという事になる。

 前者であれば、「生きる速度がずれ始めた」という観念的・メタフィクション的な変化が瞬時に「好きでないのに好きなふりをする」という能動的・意識的変化を引き起こしたというのはやや飛躍を含んでいる(どうやら新海は飛躍を好む監督のようだが……)。後者であれば、あまりに陳腐に過ぎる。

 例の木の下のシーンは、むしろ二人が同じスタートラインに立つ瞬間だと私は見る。ただし初速度は既に異なってしまっているため(貴樹の速度が急激に遅くなるからである)、この瞬間から二人の心は離れ始める。だが、明里がこの時点でその事に自覚的であるという解釈には、私は賛同できない。

 過去に固執する貴樹が愚かであるとは私は思わない。「永遠とか、心とか、魂とか、そういうものがどこにあるのか、分かった気がした」と本人が言っているのだ。固執するに値する記憶だろう。

「どれほどの速さで生きれば、また君に会えるのか」とあるが――会わない間にいつしか明里の方が足を止めていて惰性で結婚しあまつさえ貴樹から逃げ、知らず貴樹の方こそが明里を追い越している可能性は否定されていない(もしそうであれば、作品のキャッチコピー自体が強力な皮肉と化し、楽しい)。


 秒速5センチメートルについて、貴樹の「永遠とか、心とか、魂とか」が、明里との関係が永遠に続くという意味の言葉である、という解釈には私は賛同しない。「どこにあるのか」と言っているのだ。局在化した永遠の事を指しているのだ。つまり、貴樹の中で無限に引き伸ばされた一瞬の記憶の事だ。

 明里との関係が永遠であると思った、というのであれば、確かにこれは結果から見れば勘違いである。しかしその解釈からは、心や魂と並置され、あまつさえそれらが「どこにあるのか」と問う形の独白は出てこないように私には思える。それらは全て、時間の流れと主観とが交差する場所にあるのだ。

「持っているイメージ、それだけで心を占めるの。『小さく集める』のは駄目。『大きな全て』にする。集中っていうのは、寄せ集めることじゃなくて、それ以外をなくすことなの」(『灼眼のシャナVI』[1])


「秒速5センチメートル」「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」「ペンギン・ハイウェイ」は、男性の少年期の心象風景を描いたものとして相互に補完的で、全体として一つの同じ結論を描き出している。とりあえず私は秒5について、ニューヨーカーGOTOの妹君の所見を直接伺いたい。

NYG「妹の秒速評そんな面白いこと言ってたっけ。記憶力なさ過ぎて覚えていない。」

操刷「「桜花抄の終わりの時点で、明里は既に貴樹のことが好きではなかった」と聞いている。」

操刷「別に今すぐのことではない、漠然とした希望だが、そのあたりのことについてもう少し詳しい説明を聞きたいと私は思うものだ。性差を必要以上に炙り出したいわけではないが、どうにも女性の「青春」観については言語化された情報が少ない。」

操刷「もちろん、真っ先に当たるべきはそこだ。私もいわゆる少女漫画をいくらか読み、男女の『青春』観の違い(本当は「時間」観の違いと呼ぶべきだが)について私自身の所見を持っている。しかし、生の声も聞きたいところだ。男性側の感じ方を伝え、それについての応答を聞きたくもある。」

 第三章のラストは理解できる。私に分からないのは、「桜花抄の時点で既に」というところだ。あるいは、明里が既に貴樹を好きではないということを我々が納得できたとしても、何故そうなるのかがやはり不分明なのだ。男の側から見れば、「好きでなくなる理由がない」ということになる。

 もちろん、好きになるのに理由は要らない。しかし、であるからこそ、よほどのことがない限り「好きでなくなる」ことはないはずだ。私の素朴な直感はそう言う。だから私は失恋をしたことがない。したことがあれば、とうの昔に私は生きていまい。

 貴樹がその後明里以外の女性と付き合ったという事実にこそ、この物語の核心の一つがある。つまり、コスモナウト以降の貴樹の感情は「あの瞬間への執着」であって、厳密に明里自身を向いたものではなかったということだ。未来によって過去を埋め合わせられると考えたことが彼の悲劇と言ってよい。

 恋愛が須らくこのような性質(相手そのものを見ることはできない)を持つということは、明里の側でも同じのはずだ。だが明里は過去に執着しなかった、そもそも過去というものが現在の自分自身から離れて存在すると思ってさえいなかった可能性もある。


 さて、私はここ数日「秒速5センチメートル」の話を断続的にしているのだが、仮に「正しい夏」や「正しい十代」を送れたとしても、それが時間軸上の点や線分である限り、「“今”の一部」と見做されない限り、やはりコンプレックスは発現するだろう。少なくとも男性とはそういう生き物のように思える。

 正しい過去を送った者のコンプレックスと送れなかった者のコンプレックスには、本質的な差はあまりないのだと思う。現実の記憶と、あまりに強い妄想の間に差がないようにだ。かつて「憧憬」と呼ばれたであろう心情が、今「コンプレックス」という否定的な言葉で言い表されていることは残念だが。

 人生を“物語”に支配される者(私はそれを「自己物語化」と呼ぶが)が増えるのは悪いことではない。人類の生は太古の昔からずっと“物語”と共にあったのだが、まずはそれを自覚するのは喜ばしいことだ。それがあって初めて、今度は自分の手で物語を書き換え、あるいは新たに生み出すことができる。


「秒速5センチメートル」についてさらに一つ考えたことがあるのだが、これは小説版に準拠した事柄で、映画の方を見直さないことにはまだ何とも言えない。概要を述べれば、貴樹にとっての「永遠とか心とか魂とか、そういうもの」の在処は、実はあの岩舟の夜にすらなかったのではないか、という話だ。


 私は新海誠作品を全て観ているわけではないが、新海作品ではいくらヒロインが可愛かろうと、主人公を羨ましいと思ったことはこれまでない。それは新海作品が、無責任な夢を見させる代わりに、「おまえたちが恋愛に対して不条理感を抱いてきたことはまったく正しい」と慰撫する性質のものだからだ。

 羨ましいも何も、彼らが経験する不条理の中に、我々は現に生きている。それは桜並木を一緒に帰った相手がいるだのという具体的な話ではなく、一度の行為で気付かぬうちに全てを失うという、男女関係全般が持つ残酷さの話だ。それは他のメディアでは、好感度制でないタイプのギャルゲーに顕著に現れる。

「おまえたちが不条理感を抱いてきたことはまったく正しい」というところで一旦立ち止まり、不条理こそが我々に馴染みのある現実であるという信念を貫き通して作品を作るという点では、『天気の子』は『秒速5センチメートル』と同じことを繰り返しているのだと思う。人はそう簡単に変われぬ。


 抽象と具体の重なるところ、精神と身体の重なるところ、非存在と存在の重なるところ、そこに永遠はあり魂はある。


 人としての操刷法師には実家があり母があるが、その母が『秒速5センチメートル』を観たのだという。Amazon primeで無料でやっていたばかりに。曰く、「あのすごく暗いやつ」――『秒速5センチメートル』を観てもそのタイトルを記憶しないことが既に、女性によく見られるある傾向の反映であるとも言える。

「新海誠のすごく暗いやつ」こと秒速5センチメートルを観た母に対する操刷法師の解説はこうだ――「母の世代は、真に気分が落ち込んだ時には『それが大事』のような白々しい明るさの曲ではなく、中島みゆきを聴くであろう? 平成の男性にとっての中島みゆき、暗さの底を踏み破る歌が、“これ”よ」


小説

 新海誠作品のノベライズの中で、特に『秒速5センチメートル』の文章力だけが突出して高い。思うに、この人の意識は本来「永遠とか心とか魂とか」をはっきりと指向しており、言語で表しきれないそれをどうにか現前させようとして掴んだのがあの空の色彩だったのではないか、という気がしている。

 なお、サン=テグジュペリ『人間の土地』(新潮文庫)には宮崎駿が解説を書いており、これは名文だ。映像屋だから文章が書けないというわけではない。

 新海小説には空の美しさを形容する言葉がほとんど出てこない。空を言葉によって捉えることを最初から放棄しているのだと思う。代わりに言語化されているのは、触れられないものへの哀惜と諦念。観念的な言葉によって輪郭を象ることしかできない無力感が、そのまま貴樹の心情として滲んでいる。


 新海誠の小説の中でも、『小説 秒速5センチメートル』だけはまだ読める。新海は「出来事」を描写する文章はお世辞にも上手くはないが、代わりに心情の描写では冴えた表現をすることがあり、秒速に限ってはその特性がハマるからだ。ただしラストには賛否両論あるだろう。

 小説版「秒速」のラストは、シーンとしては大きな改変ではないが、貴樹の心情描写は感傷マゾの読者を置いてきぼりにするようなものではあるだろう。救いがないことが救いである秒速において、この描写は蛇足の部類だと私は考える方だ。


[1] 高橋弥七郎、『灼眼のシャナVI』、メディアワークス、2004


〈以上〉

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