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「火の輪」(2013.9)

過去作掌編「火の輪」を当時使っていたPCからサルベージしました。画像お借りしました、有難うございます。

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 薄野原には風だけがある。なにかが焦げるにおいがかすかに運ばれてくる。
 走ったせいで、息が切れている。腕にも脚にも、薄に擦れてできた浅い切り傷が無数にある。薄皮を切っただけらしく、血は出ていない。上気した膝小僧がほのかに赤い。
 狐はどこまで走っても目の前に居た。

「輪にどうぞって誘ってもらえたんだよ、さっき」
「分かってるよ」
「聞こえないふりをしたのか。親切にしてくれたひとがかわいそうだ」

 輪があったのは、薄野原よりずっと遠くだ。狐によれば、河の向こうにある宵街には、毎夜踊り明かしている連中がいるという。彼らのことだろう。耳にはまだ騒音が、瞼の裏には業火の揺らめきがこびりついている。
 輪をじりじりと見つめていたら、繋いだ手を解いて、あるひとがこちらに差し伸べた。そして、ゆるりと手招いた。燃え盛る火の輪に加わるのが恐ろしく、走って逃げた。河渡しの小舟に飛び乗って、対岸へ着くやいなや駆け出して、いったいどれほど経っただろう。
 火の輪。
 あれはひとつの地獄の光景だ。

「いつでも、どこでも、そうしてるのかい」

 いつ。どこ。急にふわりとした感覚におちいった。立ちくらみとも違う、宙に浮いたような感じだ。
 朝……。誰も居ない茶の間。昼……。誰も居ない非常階段。夜……。誰も居ない自分の部屋。前後のない場面だけが思い浮かんだ。
 いえ。がっこう。唐突に思い出して、ぬるついた額を手の甲で拭った。
 風が冷たく感じた。

「ここは毛無しにゃ堪える寒さだろうに。だだっ広くて何もない」
「どこにも所属してないと思うと安心する。いえでも、がっこうでも、居ても居なくてもいい存在になりたい。人間が笑ってくれたり一緒に楽しく過ごせると嬉しいけど、いつ引き算されるか分からないからいつも輪の外で観ていたい。そう思うことにした。ここでじゅうぶん暖かいよ」

 見え透いた嘘を捲し立てた。輪を眺めることなどここでは叶わない。輪というものは、いつ、どこでも、近づくことすらできないところにある。

「自分からそうした。自分で選んだ。きみは、そう思ってきみ自身をなぐさめているんだな」
「かもね」

 疲れて座り込む。何もかもがどうでもよくなり、狐の意見も適当にあしらった。それが不服だったのか、尻尾を揺らしてやや近付いてくる。

「おい、きみ。なんだかうわの空だぞ」
「思い出してた」

 火の輪はまだぐるぐると途絶えず回転し、燃え続け、叫びとも笑いともつかない金切り声が上がっているのだろう。あの誘いは、拒絶して正解だった。
 それよりも、突き放されたり、突き飛ばされたり、番を抜かされたり、そうした記憶でいっぱいになり頭が痛くなった。

「ほー、まだ記憶があるのか」
「はじかれた時の痛みって、忘れられるものじゃないよ。火の輪のなかで燃え続けるのと、どっちが苦しいのかな」
「瞬間的な痛みの記憶にとらわれすぎて、きみはそれほど他人に嫌われても好かれてもいない、ということに意識がいっていなかったみたいだな」
「感覚がずっと続いているんだよ。人間には受け入れてもらえないっていうことが、もう日常になってた。そうすると、全部そういうふうにしか考えられなくなる」

 話しているうちに少し落ち着いて、尻を落ち着けている草の感触を柔らかく思うようになった。ここは、いつ、でも、どこ、でもない。傾いたままの真っ赤な夕陽はいつまでも角度を変えない。

「なんできみは人間を“人間”って呼ぶんだい」
「おかしいかな」

 狐は気楽にひゅーんと鳴き声をあげた。笑ったらしい。

「ぼくが言うぶんには可笑しかないと思うが、きみの場合は“他人”とか言うものじゃないか」
「ふつうはそうなのかな」
「まあ、ぼくの見る限り、人間の世界では大抵そうだろうよ」
「別にサルでもイヌでもクジラでも人間でいいと思うんだ。人間というのは、ヒトが自称してるだけだし」

 ひゅーん、と今度は風が鳴いた。

「やっぱり輪に入れてもらいたいんじゃない、きみは」
「入りたくないとは言ってないよ」

 諦めながら薄野原を見渡した。

「でも、無理だからね」

 決然と言ったつもりが、言葉にしてみるとずいぶん薄っぺらく頼りなかった。なんの決意でも意志でもない言葉は、自分という一枚の紙を飛んでゆかぬようにする重石にはならない。
 わざとらしく両手を挙げてばんざいをした。そのまま寝転がる。慣れない動作はどうにも不自然なかたちになった。

「ああ、久しぶりに話した。ふたりでいるのはいいね。輪にはならない」
「それなら誰かすきなひとをみつけたらいい」
「駄目だよ。仲良くしていたらさ、じきにそのひとが他の人間を連れてくるじゃない。そうするとね、はじかれるの」

 どこからか狐の鳴き声がした。別の狐だ。この狐(こ)を呼んでいるのだろうか。狐は耳を動かし、ひょーんと高く鳴いた。それから、もう興味を失ったとばかりにこちらを軽く振り返った。

「きみはつまらない人間だなあ」
「人間って呼んでもらえるのは心地好いね」

 また嘘をついた。寂しくてたまらない。これから、誰も居ない夕刻の薄野原を彷徨いつづけることになると思うと、恐ろしかった。電車の音が、宵街とは反対のほうから聴こえた。狐が演技がかった声色で、おや、などと言った。

「まだ戻れるんじゃない」

 戻ったところで、と、思いながら、立った。足はそちらへ向かっていた。行くあてがないから仕方なく向かうのだ。

「賢明だ。この薄野原には迷子を狙って鬼が出るからね」

 まァ、やつはいわゆる半妖って存在だから人を喰いはしない。積年山の狸たちには嫌われているみたいだが、ぼくらには時々おいなりさんをくれてね……。
 いったい狐の声が近いのか遠いのか、聞こえるのか聞こえないのか、風の音がぶんぶんとやかましい。駅に向かって脱兎、走り出している自分に気付く。

 今度は、電線にとまっている烏が鳴いた。

(了)

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